『毎日新聞』宮城版 昭和52年(1977年)1月18日(火)

【青春のうた】

【仙台二高<5> 草創期】

県への移管で同学舎は昇格したが、県もチャッカリしたものだ。当時は他の優秀な私立学校も同じ運命にあったらしい。この時の「県令8号」によると

 県尋常中学校分校ヲ仙台市勾当台通ニ設置、ソノ生徒定員ハ500人トシ尋常中学科ノ3年級マデヲ教授

 またこれに先立つ文部省からの認可書では

 設置ノ件認可ス、但私立日進学舎ノ生徒ヲ本校又ハ分校ヘ入学セシムル際ニハ試験ノ上相当ノ級ヘ編入セシムルベキ

 とある。残念ながら、移管に至るまでの詳細な″かけひき″は知るよしもない。

 明治32(1899)年7月、清水小路にあった尋常中学校が移転。これに伴い分校はその空いた校舎に移った。白ペンキ塗りでルネサンス風のモダンな校舎だった。後に二女高図書館になり、最近解体されて、姿を消した。

 明治33(1900)年3月、県尋常中学校が県第一中学校と名称を変更。自動的に同分校も県第一中学校分校となる。

 1カ月後の明治33(1900)年4月、第二中学校が創立。その複雑な歴史に幕を閉じた、かに見えたが。

 二中は創立したが、この時、分校は実は廃止になっていない。二中開校時には、1、2、3年生をそのまま分校生として進級させ、新5年生だけを二中に持ってきたのだ。だから開校の翌年には早くも第1回の卒業生113人が巣立った。1年生から5年生まで整った学校になるのは明治35(1902)年。分校から3、4年生の半数を編入してからだ。

 一方、分校も毎年新入生を入学させていた。二中と分校の″並立時代″はしばらく続く。ピリオドが打たれたのは、明治38(1905)年3月31日、分校が完全に廃止されてからになる。

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開校当時5年生だけ入った清水小路校舎(え・仙台二高生 伊藤憲一)