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■□■□宮城県高校総合スレッドPart61□■□■

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0001実名攻撃大好きKITTY
垢版 |
2022/02/16(水) 21:11:06.60ID:Wu9igQmS0
2021年 新みやぎ模試 基準偏差値
https://fujiwara-shingakujuku.com/sendai-juku-miyamoshi-hensachi/

68 仙台二高(普通)
66 仙台一高(普通) 聖ウルスラ英智(特別志学Type1)
64 仙台三高(普通) 仙台三高(理数)
62 宮城一高(普通) 育英(特別進学・東大選抜)
60 仙台二華(普通) 宮城一高(理数) 東北学院(特進) 尚絅(特別進学)
59 仙台南(普通) 宮城学院(MG選抜) 聖ウルスラ英智(特別志学Type2)
58 仙台向山(普通) 泉館山(普通)
57 育英(特別進学・理系/文系) 宮城学院(グローバルコミュニケーション)
56 仙台向山(理数) 東北学院榴ヶ岡(特別進学) 宮城学院(MG特別進学)
55 泉(普通) 宮城野(普通)
54 石巻(普通)
52 仙台三桜(普通) 仙台白百合 東北(創進) 仙台城南(特進スーパー) 多賀城(普通) 古川(普通)
51 仙台東(普通) 尚絅(文理進学) 泉(英語) 白石(普通)

<前スレ>
■□■□宮城県高校総合スレッドPart60□■□■
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1643805701/
0606備忘録
垢版 |
2022/02/24(木) 14:38:30.89ID:nUZVRfy+0
『毎日新聞』宮城版 昭和52年(1977年)1月18日(火)

【青春のうた】

https://sendaiichikou.up.seesaa.net/image/220224A.jpg
題字は伊藤英造校長

【仙台二高<5> 草創期】

 新1年生が195人、5年生が118人。

 明治33(1900)年4月1日、県第二中学校が開校した時の全校生だ。間の2、3、4年生はいない。初代校長は、下条幸次郎。ただし第一中学校長と兼任。校舎は、1年生が南町通、5年生が清水小路。

 なんとも複雑なスタートではないか。だが決して混乱をねらったものではない。

 この変則的な開校ぶりが象徴するように、二中誕生までの歴史はもっと複雑。当時の教育界の内情がうかがえるようだ。

 こういった背景のため、現在出ている数々の″二高史″にもかなりの混乱がある。そこで二中成立前史の決定版を――。

 二中そもそもの前身は日進学舎。明治23(1890)年4月1日から開校。校舎は東二番丁の機屋跡に建てられた。

 県教育界の主だった数人が創立者、と言われるが、中心は飯淵七三郎。飯淵は柴田郡船岡町の資産家で遺族院議員。資金はほとんど彼から出たようだ。

 学制は4年制。尋常中学校(当時県内にはなかった)や、その他の専門学校を受験するための予備校的性格。英語、数学、漢文を教え、レベルは1年生が高等小学校3年並み。

 そして明治24(1891)年、中学校令が改定された。1県に中学校を1校以上設置すべしというもの。そこで県内でも明治25(1892)年、仙台に尋常中学校(後に旧制一中)が設置された。

 このころからにわかに教育熱が高まり、日進学舎も″大繁盛″。校舎が手ぜまになったため、明治27(1894)年には勾当台通の師範学校跡に移転した。

 やがて県当局も日進学舎の優秀性に注目。明治28(1895)年から年額1500円の補助支給を始めた。

 当時の事情ははっきりしないが、これが尋常中学校分校設立への布石だったとなれば、ことは微妙。いずれにせよ同学舎は明治29(1896)年3月に廃校、代わって尋常中学校分校が誕生した。書籍、教材はそっくり同学舎から寄付という形になる。
0607備忘録
垢版 |
2022/02/24(木) 14:40:06.36ID:nUZVRfy+0
『毎日新聞』宮城版 昭和52年(1977年)1月18日(火)

【青春のうた】

【仙台二高<5> 草創期】

県への移管で同学舎は昇格したが、県もチャッカリしたものだ。当時は他の優秀な私立学校も同じ運命にあったらしい。この時の「県令8号」によると

 県尋常中学校分校ヲ仙台市勾当台通ニ設置、ソノ生徒定員ハ500人トシ尋常中学科ノ3年級マデヲ教授

 またこれに先立つ文部省からの認可書では

 設置ノ件認可ス、但私立日進学舎ノ生徒ヲ本校又ハ分校ヘ入学セシムル際ニハ試験ノ上相当ノ級ヘ編入セシムルベキ

 とある。残念ながら、移管に至るまでの詳細な″かけひき″は知るよしもない。

 明治32(1899)年7月、清水小路にあった尋常中学校が移転。これに伴い分校はその空いた校舎に移った。白ペンキ塗りでルネサンス風のモダンな校舎だった。後に二女高図書館になり、最近解体されて、姿を消した。

 明治33(1900)年3月、県尋常中学校が県第一中学校と名称を変更。自動的に同分校も県第一中学校分校となる。

 1カ月後の明治33(1900)年4月、第二中学校が創立。その複雑な歴史に幕を閉じた、かに見えたが。

 二中は創立したが、この時、分校は実は廃止になっていない。二中開校時には、1、2、3年生をそのまま分校生として進級させ、新5年生だけを二中に持ってきたのだ。だから開校の翌年には早くも第1回の卒業生113人が巣立った。1年生から5年生まで整った学校になるのは明治35(1902)年。分校から3、4年生の半数を編入してからだ。

 一方、分校も毎年新入生を入学させていた。二中と分校の″並立時代″はしばらく続く。ピリオドが打たれたのは、明治38(1905)年3月31日、分校が完全に廃止されてからになる。

https://sendaiichikou.up.seesaa.net/image/220224B.jpg
開校当時5年生だけ入った清水小路校舎(え・仙台二高生 伊藤憲一)
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