当時の現役教員のブログより引用
 事の発端は一九六九年九月一日に始まった。
私のクラスの生徒を含めた何人かの二年生の生徒がいきなり私服登校してきたのだ。
当時生徒会の顧問をしていた私は何故、私服登校をしたのか聞いた。

「制服は体制の象徴であり、差別の根源である。」 と応えた。
いくつかのやりとりの後で私は、「どうしても制服を廃止したいなら、
生徒会という組織があるのだから、そのルートを通して要求しなさい。」と告げた。
しかし、私服登校はそのまま続けられた。  

考えてみれば、彼等にとって私服登校は闘争の手段であり、目的ではなかった。
したがって、私服登校を合法化させることなどは、“ナンセンス”なことでしかなかった。

担任によっては彼らと激しくやり合い、却って火種を大きくした。
この私服登校が旭丘闘争(紛争)の始まりであり、その後、校長室封鎖未遂事件、文部省見解反対全校決議、全校デモ、制服自由化ワッペン運動、制服自由化全校決議へと一連の闘争が展開されていくことになるわけであるが、この時点では知る由もなかった。