川上音二郎などの演劇人が、海外の演劇事情の見聞から、わが国でも俳優学校の必要を説き、それを自分たちの手で一部
実現したことはあったが、教育者が演劇学校の設立を提言したというのは、伊賀駒吉郎の他にはなかったといってよいだろ
う。ちなみに、前回にふれた教育学者の谷本富の「日本演劇改良案」というのもあるが、それにはわが国の劇場は西洋風の
椅子席と桟敷を併用するのがよいとか、花道にも背景をつけては、などの思いつきや、将来わが国の演劇では時代劇よりも
社会劇、とくに社会悲劇よりも社会喜劇がさかんになるだろうという見通しをのべているぐらいで、演劇学校設立の主張は
みられない。
 そういう点からも、伊賀のこの提言は、卓見だったというべきだろう。
 つぎの「美と教育」の節で、伊賀は、小説などの文芸の教育や、寄席などとも共通の問題として、普通の教育でも、演劇を
鑑賞させるべきだとして、つぎのように主張する。
 「学校生活の間だけは小説は読めぬ、寄せ席には足を入れられぬと厳重に禁制しても、一旦卒業すると囚人が牢獄を放たれ
たよーに俄かに自由になるので前の反動で却て甚だしい不品行なものが出来る。で、出来るだけ学校生活中より健全な美的修
養を施すのが得策であると思ふ。否、それが得策であるのみならず其れでこそ生徒の生涯の慮った教育と云はれるのであろう。
従来のよーな単方で究屈な教育は決して生徒の生涯の幸福を慮つた教育と云はれるのであろう。従来のよーな単方で究屈な教育
は決して生徒の幸福を慮つたものとは云へない。」
 子どもたちが映画や演劇を見ることは、いまでこそ奨励され、常識になっているが、明治期どころか、一九四五年以前の学校
教育では、ほとんど禁止されていた。伊賀は、子どもの演劇活動については具体的にふれていないが、演劇鑑賞を奨励する立場
にあった。師範学校の教諭であり、後に私立女学校の創設者となるものとして、これは、きわめて進歩的な意味をもっていたと
いってよいだろう。

(冨田博之(1998)『日本演劇教育史』、p.p.172-175、国土社)