私見でも、天理教の権力者の言動は
、企業におけるメンタリングとはほど遠い甘えの姿勢が強い。
それらは修行の身である青年や信者に対する
「伏せ込み」「理立て」「修行」「たんのう」という言葉に置き換えられる。
しかし、常識的な思考をするほど、
それらの言動は組織に甘えた結果の操作であることに気付く。
会長と言われる人間と話せば、
彼らが信者たちに対して「俺が言えば言うことを聞く」という傲慢さに気付くだろう。

今回、そのような事例の一端を偶然私が感じることができたので提示したい。