天理教からの防衛の仕方 親の思いという暴力性

天理教では3年後に教祖が没してから130年という節目を迎える。
定期的に訪れる節目は、信仰上は竹の節のように堅いと例えられる。
節目には困難が伴うと。
しかし節に耐えるとそのうち必ず芽が出る旬が訪れるとされている。
これらは、普通に考えれば節に耐える姿こそ神がきちんと見ている(報われる)という
意味になるだろう。
しかし天理教では、旬に向かって結果を出さないと節における忍耐が評価されないと
いう逆転となる。
ブラック企業は、結果が出ないと従業員に
「会社が悪いのではない、お前のがんばりが足りないからだ。
お前の修行が足りないからだ」というのは、天理教のそれと同じ構造ではなかろうか。
天理教本部の役員の話でも、全国にある各教会の会長の話でも、
「今こそ神様に評価されるべく節に耐えてがんばりましょう」
と神の意思を個人の努力に帰結するレトリックの邪悪さを持っている。