しかし今の天理教では、
こういったキャピタリズムを乗り越えるほどの天理教必要論を提示できる人は少ない。
そこには「道専務」であることに優越感を覚えて、歩みを止めている保守的な老人か、
倫理を重んじる中年だけであり、若者はやる気を削がれている。
良い商品は皆買っていき、悪い商品は誰も買わない。
天理教という商品価値はどこにあるのだろうか。
信仰がなくても生きていける時代に、この問いは非常に難問である。
しかし自室に籠って自慰行為ばかりしていては、自己点検なんてできない。
天理教村と揶揄されないように開放することを提案したい。