私の大局的な考えを申しますと、
教義の真偽や発展については天理教研究者やコアな信仰者以外には、
そんなに重要ではないと思います。
それは前にも申し上げましたように教義の是非に触れることは、
信仰の根幹に触れることであります。
その根幹に容易に触れることがあっては、根幹から崩れる危険性を孕んでいます。
教義を語るときは畏敬の念をもって「ちょっと正座でもしましょうか」というような
雰囲気で接するべきだと思います。
たとえば、家庭であっても家族の根幹を構成する両親の性体験なんてものは
触れるものではありませんよね。
だいぶ性に対してオープンになってきましたけど、
やはりわれわれの世代では家庭で性を扱うことに対して抵抗を感じます。
それは「古い世代」ということではなく、やはり家族の根幹に触れることに対して
「触れないほうがいい」という当然の身体感覚だと思っています。
閑話休題。