もし、それらが青年さんの将来的可能性を飛躍させるための行為であるならば、
もしくわ雇用契約として雑用の対価(給与)を支払われているのであれば
私は何も言わない。
しかし仏教とは違い、青年さんは飛躍するための羽をすでにもがれている。
前回論じたお金の問題もそうだが、自己鍛錬という精神的側面でも同様である。
つまり自己と対峙する時間的空間的な場は用意されず
(むしろ天理教では、バカになれと強者に都合のよい思考制止を求められる)、
「先生の言うことを文句言わずに従う(素直)」という先生の都合に合わせて
すり替えられる。
先生すらも容易に間違え、先生であっても修行の身であるという仏教(人間)では
当たり前の常識が、天理教にはない。
少なくとも私にはそう見える。