その無意識的葛藤を芽生えさせないためにも知的教養を信者に求めず(排除し)、
「素直」という防衛機制を用いて思考制止を促すのだ。
ではこのままでいいのだろうか。
このまま行ってしまうと天理教の将来は社会的、宗教的マイノリティとして
かなりのダウンサイズが進行してしまう。
そのためにも天理教のもつ資源や構成要素を見直し、
外に訴えていく必要があり”開かれた天理教”という側面が必要となってくると思う。
何が天理教の文化資本(@ P,Bourdieu)となるかボクにはよく分かんないので、
皆さんが考えてください。