そうしてできたのが現在の天理教教典と稿本天理教教祖伝であるとされる。
つまり、この2つでは事実と伝承が曖昧なまま混在となっているのである。
こうして分かるように、あくまで天理教は庶民のための教えであり、
信者に対して知的教養は求めていない。
より踏み込むならば、庶民を差別化するような知識は排除される傾向にあると
言っても過言ではないだろう。
それは現在の天理時報はじめ、天理教の布教戦略は、
弱者(庶民)のためのものであることから明白である。
これが無意識的であることにようやく気付く(意識化する)のは
「天理教は弱者のためだけなのか」というConflictが芽生えることである。
「だめの教え」(だめ=最終的な)というのは弱者のためではなく、
全人類に対する救済ということであるが、
それを「おたすけ」という言葉で記号化してカテゴライズすると、
たすけられる人=弱者という自動展開となってしまう。
そうすると天理教の金科玉条である陽気暮らし世界そのものが、
弱者のためになってしまい、強者(天理教がなくても陽気に暮らしている人々)
には天理教が必要なくなってしまう恐れがある。