以上のことから、天理教教祖の息子である中山秀司が天理教創世記において
足を痛めたことは、とても文学的要素が組み入れられていると感じた。
これが事実かどうかはしらないが、天理教の教典が二代真柱の命により、
当時の小説家や知識人などによって編纂されたことを考えれば、
ギリシャ神話からヒントを得た経緯があっても不思議ではない。
推測で恐縮だが、天理教には中山秀司が足を痛めた以外にも足に関する出来事や事故が、
天理教や社会の情勢を反映するように扱われているという逸話はあるんじゃないかと
思う。知らないけど。キリスト教でも、足を痛めた者やふらついている者に対して、
信仰の足並みや迷いとして解釈する場面が多い。
中沢新一は、「キリスト教は創世記からふらついている
(不安定な、脆弱な側面を持つ)宗教だ」と言い切っている。