「いやー君の書いた論文はすばらしいね!」と言われれば「えへへ。次も頑張ります」と私はなるのだ。
他者に受容して認めることでしか動機付けは駆動できないのに、
発展するためには批判しかないという矛盾は無自覚的で都合よすぎではないだろうか。そういうことだと思う。
自分の無能力性に自覚的であること、それが天理教的「慎み」ではないでしょうかね。
またこの年になると、自分と意見を異にする人と一緒に仕事をするエネルギーがなくなる。
同じような考えの人と「ほーそうなりますわな」と低刺激でもずっと
軒先に座り続ける方が楽ちんなのである。
かといって知的創造性や、思考の展開力が落ちたとはあまり思わない
(たまに思うけど)。むしろ発信欲求は大きくなるばかりである。