しかし大切なことは、そういった専門家特有(天理教人は天理教の専門家として)の
バイアスから抜け出して考えることは100%不可能というアポリアを自覚することなのだ。
「いやいや私の言ってることは間違いかもね」という不確実性こそが、
他者の信頼を得る可能性を持っているのではなかろうか。
「おれはこうだ!神様はこうだ!」という党派的な人は、
それが正しいか正しくないかという水準はとりあえず括弧に入れて、
ただ人としてシンドイと思う。私はそういった方と言葉を交わすのはシンドイと思う。
よく教育の分野で勘違いをする方が多いが、
考えを発展・展開するためには必ずしも批判が必要ではない。
批判があってこそ進歩するというのは間違いではないのだけれど、
批判だけでは進歩しない。
そういう方に限って「学習への動機付けが大切」と平然と言われるのだが、
そこに矛盾を孕んでいることに無自覚的である。
私は、そして多くの人間は褒められて、支持されて動機付けは駆動する。
批判されて「なにおーよし頑張るぞ」
と思われる方は、すでに動機付けが駆動しているので動機付ける必要はない。