もちろん会長さんは、そんな分析を言葉にはしないが、
昔から教会の息子たちの話を聞いている私としては、
この会長さんの寂しい姿は必然的なのだろうと感じた。
この会長さんの後継者である息子は常々
「親父(会長さん)は神や親を見ているが、人間を見ていない」
と私に言っていたことを思い出さずにはおられなかった。
確かに、私自身もこの会長さんと話をすると天理教の用語は多く出てくるが、
社会人として人間として対等に話し合えたことはない。
「徳がない。理がある。親の思いに寄り添って。」
と上から落ちてきた言葉ばかりの再現で、
それら天理教の用語を抜きにした人としての生の声がまったくない。
私が天理教に対して批判的な論拠を形成しているのも、
この会長さんの立ち居振る舞いの影響が強い。
偉そうにトップダウンで天理教論をまくし立てて思い通りにした結果、
数年後は誰も教会に寄り付かない寂しい正月になっている。