お供えは、困っている人や福祉関係に使われてこそ、
出す方にとっては嬉しいものである。
苦しい中でも出した甲斐があろうというものである。
次も頑張ってお供えしようと思える。
神様にお供えしたものを、教会長がどのように使おうが、いいではないか、
というのは、関係無い者の理屈だ。
天理教は人助けと教わっている。
お供えが人助けに使われてないとすれば、空しい思いがするのは当然であるし、
出す行為自体が尊いのだ、という理屈は、誠真実を出せという、
本部の歪曲教理として今まで散々利用されている。
そして、幹部達は金にまみれ、信者、末端は、貧に落ち切っていく。