つまり、三ヶ月の期間で経験する人間関係や仕込み、伏せ込みと言われるものの中から
個人を見つめ直し、天理教の教えを涵養させ人生の教えとして骨肉化させるという
部分は修養科の付加価値であり主要課題ではないと認めたことになる。
これはマズイと思う。
なぜなら、その三ヶ月で得られるものは知識やおてふり技術のような
意識的作業よりも無意識的な上記に挙げる付加価値の方が信仰として大切であると
私は思うからである。