私がここで一番言いたい事は、言論の自由でも信教の自由でもない。
「そんな八方美人なことを言っていては、現代では淘汰される」ということである。
こういったことを言うと、天理教人は「天理教の教えは現代の常識では計れないんだ」と
いう返事が予想される。
しかし教祖のひながたが、ある意味ー当時の常識では計れない
ー”バランス感覚を逸していたために”民衆の信頼を得た事ととは方向性が異なる。
過去に逆行するような現代におけるバランス感覚の喪失は、
ラディカル(教祖のひながた)であるということと水準が全く違う。
そして、私は天理教の良さはどんな人間でも受け入れる「歓待の精神」であると
思っている。
そして、それこそ陽気暮らしなのではないかと思う。