察している方も多いと思うが、
私が天理教に対して言っていることはニーチェをなぞることが多い。
本投稿の要旨として天理教はニーチェを超えなければ
今後の社会で存在を確かめることは困難になると考えている。
アメリカで信仰離れが急進しているように、宗教がなくても経済は回り、
人々は生きていける時代である。
その中で宗教の存在意義を証明することは容易ではなく、
宗教哲学が問い続けている難問である。
どこかの宗教団体のように、観光で金儲けをしているとこもあるだろう。
一部の人間の自己実現や政治集団として機能している宗教団体もあろう。
その中で、形而上学的信仰を持つのであれば、
天理教が主張する「人のため」という利他主義の裏にある
ニヒリズムや弱者の肯定を乗り超えなくてはいけない。
そうでないと天理教も既成宗教と同様のデカダンスを迎える。