私が天理教を宗教ではなく自己啓発セミナーに近いと感じるのは、
指導者たちの言葉が生活侵襲的すぎるためである(具体的な教義論ではない)。
この議論に天理教人と
一緒に踏み込んでしまうと、散らばった先人の歴史やパッチワークされた教典を
引き合いに出されて結局うやむやにされてしまう。
しかし一般的に宗教とは主体的な内的作業である。
通常、指導者やメンターは、目標となる教義を提示することで
「あとは自分で考えろ」と信仰へのチャレンジを促す存在であるはずだ。
上下なんてものはない。
信仰とは、失敗も含めて自分で教えを噛み砕くような
アソビの部分がなければ教えを涵養させることは到底できないだろう。
誰かにあーだ、こーだ言われるのは信仰とは言わない。