天理教人も同様である。
天理教人の人となりを知らない世間の人は多い。
しかし天理教を知らない人が天理教と聞けば人となりよりも「新興宗教」という
アレルギーが発動する。普通の人は神や宗教にはアレルギーがある。
しかし神を括弧に入れて天理教人の行動を対外的に広報する人間は、
天理教幹部にも天理教研究者がいないことは疑問であり天理教人の閉鎖性であると
思う。それは今回の食事会に参加してみて一番思ったことである。
もっと天理教人は社会と繋がった方が布教的ではないだろうか。
なぜだか分からないが天理教人は天理教人と集まり、天理教の話をする。
それでは、天理教以外の人間に天理教の行動を知る機会は少ない。
社会との接点が、街角で天理教の幟を掲げて絶叫することや街で突然
「天理教です」と道行く人に話をかけていては、
社会は天理教と離れるばかりである。
別の話で、天理教の海外布教戦略の話を以前聞いたことがある。
海外布教と言えば、天理教の教えを海外にも広めるという志があるのだろう。
しかし実際は、海外の天理教拠点に住み、
そこから集団で活動するということらしい。
それでは海外布教の意味が本末転倒しているのではないだろうかという嘆きを
青年さんから聞いたことがある。
似たような話に日本の研究者は海外の学会に行っても、
日本人研究者で集団をつくって海外の研究者が近づけないという
皮肉を先輩から聞いたことがある。
これは、日本人の行動特性だと思うが、
それを意識し言語化している天理教人がどれほどいるのかは疑問である。
別の教会長からは「地域の役割があるが、天理教の行事が忙しいので、
地域の役割に当たりたくない」という話も以前聞いたこともある。
これもおかしな話だと思う。私は多くの天理教人を尊敬もし、素晴らしいと思う。
しかし、布教を掲げる彼らがなぜ社会に出て行かないのは疑問でしかない。
そこには構造的惰性が働いていることは推察できるが、
それを打破しなくては天理教の未来は暗いだろう。