その翌朝から今まで私が考えていることは
「なぜ天理教人には歓待の精神が存在するのだろう」という疑問である。
「人には歓待で迎えよ」という教えでもあるのだろうか。
「喜ばずして帰さない」だったかな。私はよく知らない。
しかし、例えそのような教えがあるからといっても簡単には実践できまい。
つまり、私から見て歓待を誘因する意図や思考とは別の装置が作動しているような
感覚を覚えた。
歓待をしなくてはいけない教義があるから優しくしなくちゃや、
優しくしておいた方が後々メリットがあるという意図は感じられなかった。
むしろ、歓待しなくては落ち着かないかのような身体化された心理機制で
あるように感じられた。
この点について弁証することは大変に難しい。