私は天理教人の社会保障を論じたが、それについてレスポンスをいただいた。
それは教祖の教えに「律が怖いか、神が怖いか」という言葉があり、
法律や規制を恐れていては神の意思(陽気ぐらし)を達成できないということを
教えていただいた。
これは神の教えを達成するためには強い意志を持てという教えなのだと推測する。
私は個人の信仰的解釈まで足を踏み入れるつもりはないし、
「律の方が大事ですよね」と主張する気もない。
しかし律をいいように利用している側面を無視して、
個人的な思いを教義でカモフラージュさせて「いかにも神様の意思だ」と
述べることを私は理解できない。
天理教人もまた社会制度の中で生き、
法律の恩恵を受けていることは自覚しなくてはいけない。
それでも律か神かという二項対立を採用し、気分的な利用をするのであれば、
天理教はカルト教団と社会に認定されることを受け入れなくてはならない。
それは社会に生きるものの責任ではなかろうか。