もう一つ。
天理教の大きな社会的役割として弱者救済がある。
社会的多数や社会制度に当てはまらないマイノリティーの人たちを救い上げ、
擁護してきた長い歴史が天理教にはある。
天理教の教会に行けば、行く当てのない人たちが住み込みで
天理教の御用をしている姿を目にすることが多い。
それは天理教に限らずに、いかなる宗教にも当てはまる重要な役割だと思う。
最近の言い方をするのであれば、宗教は社会のセーフティネットとして機能している。
それは行政支援や福祉支援では、
手の届かない細やかな支援ことであることが多いと思う。
しかし、その前提には支援者の保障がなされなければならないと私は考える。
天理教はセーフティネット対象者の受け皿であり、
セーフティネットの対象者であってはならない。
教祖のひながたのように「貧に落ちきれ」という教えがあるからといって、
実際に財産を手放すことは現代社会では現実的ではない。
教祖の教えを時代考慮なしに模倣していては「ひながた」の意味性が喪失する。
また昔よりも現代の方がセーフティネットが充実しているというのは、
Pitfallである。
制度としては充実しているが、生命資源として考えると孤独死や餓死者が
この平成の時代にも存在することは忘れてはいけないだろう。
現代は金がないと飲食もできない社会なのだ。
つまり敢えて、年金制度や社会保障制度を敬遠する天理教人に人を救済する条件
(資格)が揃っているのか疑問である。
人を守るためには、自分が同じ条件ですでに守られていないといけないというのは
傲慢ではなかろう。
またそこを教育し、保障する責任者は「理の親」でしかないだろう。
でも実際には親は自分勝手で、子どもの面倒をみない場合がある。
これはお金だけを要求し、社会保障を黙殺する天理教本部も含めて、
宗教的虐待といっても過言ではないだろう。