これまでの「理の親」論の中で、
私は「子どもの権利ではなく、親の義務」を主張した。
親の義務とは、自明のごとく子どもを養育することである。
よく勘違いされるが、日本国民の三大義務の一つは教育を受ける義務ではなく、
親が子どもに教育を受けさせる義務である。
つまり親という役割には責任がある。
それは天理教の理の親も親という言葉を採用しているので同等である。
理の親がどのような崇高な教説を展開されようとも、
子どもの生活環境や養育環境に責任が持てないのであれば、親の養育不足であろう。
その養育不足が問題となるのが虐待であるが、
この場合は宗教的虐待と概念づけてもいいのではないかと思う。
なぜなら最低限の生活を保障せずに、
親という特別な力を用いて親への忠誠を半強制的に優先させるのは、
虐待と同じ構図である。