格差社会についてメディアでは「収入の格差」として論じられることが多いが、
社会学では「意識の格差」として議論が落ち着いている。
元来日本での格差は年収によって決められることが多かった。
しかし年収では流動性が高く、貧乏主婦がある日突然大金持ちになることや、
経済的に困れば上京して出稼ぎすることもよく見られた。
そこまで波瀾万丈でなくても、
真面目に働いていれば順調に年収が上がるということが日本社会の慣例であり、
一億総中流や八紘一宇を好む日本では格差はあってないようなものであった。
しかし意識の格差というのは、強者はより強者となり、
弱者はより弱者として固定化することである。
弱者は強者になるためのアクセス権すら手に入れることができない。
そうすると弱者は強者になるために向上よりも、
現在での地位での安定を目指すようになる。
最近の若者の消費が停滞しているというのは、それの一面に過ぎないだろう。
最近の女学生の将来の目標は
「困らないだけの収入がある家の主婦」
という消極的な意見を聞いたこともある。
それを「最近の若者は元気が無い」と片付けてしまうのは無責任ではなかろうか。