筑駒が、学生らがためになると食い付くような「英才教育」をやれていればこんな話にはならなかったのでは?
誰も聞いていない授業を「これが英才教育です!」と言ったり、「エリートは授業を聴かずとも自分で勉強します。」では、話にならないでしょう。
今やっていないのだからエリート教育の必要性訴えられても困りますという感じだよね。