私が天理教として原発反対を成し遂げたい方に問いたいのは、
天理教人として何を成し遂げたいのかということである。
天理教的地位の向上だろうか、弱者に限定した陽気暮らしなのだろうか、
それとも政治的発言力の向上なのだろうか。私は分からない。
ただ感覚として降って沸いたような反原発の気運に対し、
胡散臭さや浮き足立っている感を覚えるのは私だけだろうか。
運ばれた料理に不手際があったからといって、
「責任者出てこい」では何も状況はよくならないだろう。
何度も申し上げるが、天理教の役割はご飯を求めている人に対して、
黙ってご飯を差し出し、その方の健康を祈ることではなかろうか。
自分の意見や思想をいったん括弧に入れて、とりあえず病める者を想像し、
神と対峙す中で他者へ祈りを捧げるというのが本質的な慎みではなかろうかと思う。
善悪の判断ではなく、宗教者の役割というものを前提として考えることが、
原発に限らずにもっとも大切なことなはずである。