素朴な疑問として年祭って何の(誰の)ためなのだろうか。
三代真柱の死去が、年祭活動と意味付けられることで、
三代真柱の生前の意思が薄められているように外部にいる私は感じる。
このことは小さいことのようだが、意外に重要なことなのではないかと思う。
三代真柱の生前の意思は、どのようなものかは私は理解してない。
しかし初代、二代、三代、四代と後継されるたびに、
天理教の社会的影響力は低下している感が否めない。
東大出身の二代は各界の人脈も豊富であり、宗教的には教義の編纂をおこない、
社会的には学校、病院などを作り実質的に天理教を全国的に認知させた人物である。
亡くなった三代はスポーツに造詣が深く、
教内的には時間があれば全国各地の教会に出向いて説教をしたと聞く。
これらは多くの天理教人が同意してくれるだろう。
一方、現四代については「どんな人?」と天理教人に聞いても、
なかなかパッと一貫した回答を得ることがない。
まさしく「目立った特徴がない」というのが特徴だと私は思っている。
そんな中でリーダーシップを保持していた三代の死去である。
今後の天理教はどうなっていくのだろうかと考えたときに、
明るく考えることは到底できない。