私は元々、天理教の年祭についてはあまり理解していない。
来年か再来年に天理教の教祖が亡くなってから130年となる年祭だが、
これは天理教にとってどういうものなのかイマイチ理解できない。
というのは、これが喜ぶべきことなのか、悲しむべきものなのか、
苦しむべきものなのか、喜ぶために苦しむべきなのか、
じゃあ何をもって喜べるようになるのか、
どのように受け止めればいいのかよくわからないということである。
つまり天理時報や天理教人の言動を見ると、
「年祭に向かって頑張らねば」とゴールのない全力疾走を求められるという
悲壮感しか私は感じない。
それ以外の情緒を天理時報や天理教人からは感じない。