一期校が難関で、二期校の難易度が一期よりも低かったというのは勘違い。
日程的に一期校が第一志望校になり易く、二期校はその滑り止めに適当だったというだけで、
一期校よりも合格が難しい二期校は珍しくなかった。
埼玉大は二期校末期のこの1977年頃でも一期校の千葉大よりも入試難易度は高かったのでこれは分かるだろう。
一期校二期校時代が進むにつれ西日本では各国立大学の入学難易度が京大を筆頭に序列化されていったのだが、
1950年代、各府県の高校生は県内や域内の国立大学を受験していた。
東京と神奈川県の大学のみが全国区だった。