和歌山の中学・高校 [転載禁止]©2ch.net
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天理教に関する苦情・ご相談はこちらにお願いします
天理教被害者の会代表 辻正彦(42)(畝傍高校46期逮捕歴3回 前科一犯 童貞歴42年 稼ぎゼ
ロ 人間のクズ 汚物 池沼 穀潰し キショい 詐病 禁治産者)
住所
〒634-0071 奈良県橿原市山之坊町43−2
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和歌山でも既にこの制度はあって、多いところだと日高高中津分校は定員40名のうち
9名は県外生。寮も有り。 天理教のハッピを着た人間が従軍慰安の国連人権委員会で、
日本への謝罪を求める発言をしたという件について 天理教は新興宗教団体として、一定の市民権を得ている。
それらの大きな要因に、天理教は政治的な発言を多くしないという側面がある。
某学界などは政治的発言というよりも、
たびたび政教分離の俎上に挙げられるほど政治団体と一体化している。
そこには団体として強力な求心力もあるだろうが、
一方で宗教団体が政治活動をおこなうキナ臭い嫌悪感を感じる人は多い。
その点において、天理教は比較的ゆるく、開放的で自由な雰囲気がある。
天理教も過去には特定の政治家を応援したりしたこともあったようだが、
近年では特定の政治家や政党にコミットすることはない。
私も、そのような天理教の姿勢には好感を持っている。
個人がどのような政治的思想・信条を持っていようと、自由が担保されている。
また過去にも書いたが、世論を二分するような議題には天理教が関わることは
賢明ではない。それは政治的目的を持った政治団体だけでよい。
天理教の金科玉条は「陽気ぐらし」であり、政治的達成ではないからである。
そんな中、議論が沸騰している従軍慰安婦問題について天理教という名前を最近
たびたび耳に目にすることがある。そのソースが以下のリンクである。
ここから各ブログなどで拡散されているようである。
https://www.facebook.com/shun.
ferguson.3/posts/668771989875017 上記の写真を見ると、天理教のハッピ(公式ユニフォーム)を着た天理大学の教員が、
国連の人権委員会で日本に謝罪を求める発言をした、という記事である。
下記の産経新聞でも、この人権委員会の特集記事を記載している。
上記の天理教のハッピを着た人間の写真は、
産経新聞ではこの問題に長らく取り組んでいる戸塚弁護士だけにトリミング
されている。
http://sankei.jp.msn.com/politics/
news/140727/plc14072713000007-n1.htm >>678
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daiyakaisei@yahoo.co.jp 私は、これらの写真と記事がどの程度事実を正確に反映しているのか分からない。
研究者として人権委員会を見学しただけなのか、
天理教代表として何らかの意見表明をしたのか、天理大学の代表なのか、
そして本当に日本に謝罪を求める発言をしたのか。
ただ、写真からは天理教のハッピを着て、
対日謝罪を求める人たちと同じ方向に着席(戸塚弁護士の隣)していることは
事実のようである。
本人にはこれが報道写真に撮られることも考えてのことであろう。
このことからこの人物は天理教を代表して日本に謝罪を求める立場であると思われる。
(天理大学の教員という立場で、天理教のハッピを着て、
対日席に座っている以上、個人の意見とすることは非常に無理がある) そこで私はハタと止まってしまった。
天理教が、特定の政治的課題に対して明確な意見を表明するなど珍しいな、と。
どういった教義が従軍慰安婦と関連しているのだろうか。
「陽気ぐらし」という目的が、
従軍慰安婦の賛否にどのように関わるのかイマイチ理解できない。
一信仰者による個人的関係性の中で、
従軍慰安婦における対日という思想は勝手にすればよいが、
天理教総体として従軍慰安婦にコミットする動機(教義)は私にはピンとこない。
つまるところ、従軍慰安婦などの特定の思想に肩入れするメリット(計算)が
理解できない。
弱者の救済という点では、「陽気ぐらし」の下位概念である「ひとだすけ」に
関わることは理解できるが、従軍慰安婦に関しては政治的リスクが大きすぎる。
天理教の思想がどのように従軍慰安婦と関連するのかをネットで調べていると、
下記の論文を天理大学からリンクできた。
今回写真に写っていた研究者の論文である。
http://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/
metadata/3239/GKH022907.pdf 一読してみると、「従軍慰安婦」は「ある」という前提から議論されており、
私も微妙な反応しかできなかった。
自分に都合のよい情報しか集めない確証バイアスが多いと感じ、
なかなか「はい、そうですか」と論理的に言える論文ではない。
この論文を読む限り、国連人権委員会での天理教の主張というのは誤りで、
研究者個人の主張である可能性が強いと感じる。
彼は従軍慰安婦を研究テーマにした研究者であり、
何か個人的に強い思い入れがあるのだろう。
私は、本件を天理教の政策ではなく、研究者個人の活動だったとしか思えない。 もし、天理教の主張であるのなから、どのような天理教教義と、どのような政治的目的が関連しているのか教えてほしい。
もし、研究者個人の主張であれば、個人の思想はどうでもいいが、旅費の出所や信者への説明はどのようにしたのかだけ明らかにしてほしい。 来年の天理教教祖130年祭に向けて 心が大事と言いつつ、要は数字ってこと
年明け早々に、宗教に関連する大きな出来事がシリアでおこったことは記憶に新しい。
しかし海外の報道と日本の報道で大きな違いがあると感じている。
日本では殺害された方の話題や、自己責任論や、政治的論争として扱われる。
しかし、海外ではイスラム教そのものに対する話題や議論や嫌悪感が多い
(私のソースはCNN.comやWSJであり、違うと言われれば訂正する)。 日本では、こういった宗教の存在意義に対する議論がないのが残念である。
一方で、こういった議論がないのが日本の宗教の特徴であり、
誇るべきものではないかとも思う。
持論になるが、海外では、宗教というのは個人のアイデンティティを形成するものである
(最近では欧米の若者の宗教離れも問題になっているが)。
しかし日本の宗教の本質は、寛容を示すものだと私は思う。
八百万(やおよろず)の神という概念を持つ日本の特徴は、
アニミズムや偶像崇拝でさえも許容する。これは日本以外ではほぼ考えられない。
日本では宗教系の学校法人はたくさんあるが、
たとえばミッション系の学校に通っていても仏壇がある家庭は多い。
そして初詣をし、クリスマスを祝い、お盆をし、七五三をし、「私は無宗教です」と
言う。
端からみれば無茶苦茶な国である。
このような無節操を海外ですれば、刺されると思う。
しかし、この多様性を受容することこそ、日本の宗教の本質であると私は思う。
反対に、寛容さを失い何をやっているのか見えない閉鎖的な宗教は日本では
受け入れられない。
どの宗派であろうと、いろいろな価値観を許容し、
他を尊重するという姿勢を持つ宗教が今の時代に生き残っているのではないか。
私の知っている坊主は、
「教え以前に、やるべきことが人間にはある」と言い切っているのに驚いたことがある。 天理教も寛容な教義を持っている
(天理教特有の禁止事項や排他的な折伏は特にないという意味)。
そういった意味では、非常に好感が持てる。
しかし一旦、組織の中に入ってしまうと、その寛容さは失われる。
それが大きなテーマである。
天理教を外から見たときの寛容さと、中にコミットしたときの非寛容さは、
天理教人たちが口にする「教えは好きだが、組織は嫌い」という言葉に集約される。 三代真柱が死去した。
全国紙のニュースでも取り上げられた。
その後の教団葬の様子は、天理時報でも大きく紙面を割かれていた。
天理時報や天理教人の論調として多いものが
「年祭の旬に大きな節を見せられた、全力で年祭活動に向かおう」
(ex天理時報4387号)と異口同音である。 私は元々、天理教の年祭についてはあまり理解していない。
来年か再来年に天理教の教祖が亡くなってから130年となる年祭だが、
これは天理教にとってどういうものなのかイマイチ理解できない。
というのは、これが喜ぶべきことなのか、悲しむべきものなのか、
苦しむべきものなのか、喜ぶために苦しむべきなのか、
じゃあ何をもって喜べるようになるのか、ど
のように受け止めればいいのかよくわからないということである。
つまり天理時報や天理教人の言動を見ると、「年祭に向かって頑張らねば」と
ゴールのない全力疾走を求められるという悲壮感しか私は感じない。
それ以外の情緒を天理時報や天理教人からは感じない。 _____
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_//三三\ /
`/へ(/ ̄ ̄ ̄\__/|
// /~ /二_ |彡 ノ
ヽヽ≧ヾ<イO/ レヘ |
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ヽ/ ∧|
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U∧ Y_ノ/ //
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`/ \>((ヽ/ノ|L| 素朴な疑問として年祭って何の(誰の)ためなのだろうか。
三代真柱の死去が、年祭活動と意味付けられることで、
三代真柱の生前の意思が薄められているように外部にいる私は感じる。
このことは小さいことのようだが、意外に重要なことなのではないかと思う。
三代真柱の生前の意思は、どのようなものかは私は理解してない。
しかし初代、二代、三代、四代と後継されるたびに、
天理教の社会的影響力は低下している感が否めない。
東大出身の二代は各界の人脈も豊富であり、宗教的には教義の編纂をおこない、
社会的には学校、病院などを作り実質的に天理教を全国的に認知させた人物である。
亡くなった三代はスポーツに造詣が深く、
教内的には時間があれば全国各地の教会に出向いて説教をしたと聞く。
これらは多くの天理教人が同意してくれるだろう。
一方、現四代については「どんな人?」と天理教人に聞いても、
なかなかパッと一貫した回答を得ることがない。
まさしく「目立った特徴がない」というのが特徴だと私は思っている。
そんな中でリーダーシップを保持していた三代の死去である。
今後の天理教はどうなっていくのだろうかと考えたときに、
明るく考えることは到底できない。 前述したように、天理教の最近の枕詞は「年祭に向かって」としか内容がない。
私は思う。「そんな直近のことばかり考えていないで、
15年後、20年後の天理教がどうなるのか考えた方がいいのではないか、と。
もし20年後にも天理教が天理教で存在したいのであれば、
天理教のリーダーが求心力を低下する中で、
年祭ではなく、もっと先を考えるべきである。 天理教の規模は、日本の新興宗教の中では大きい。
しかし、世界に1万7千の教会がある中で7割が事情教会
(後継者がいないなど機能不全教会)と言われている。
また残りの3割の教会や、大教会、天理教本部の毎月の祭りを見てみよう。
そこに参加する半分以上の信者が後期高齢者である。
彼らが20年後の天理教を支える中心人物になり得るはずがない。 天理教は衰退を止めることができるのか
天理教人から封筒が郵送された。
「諭達第三号」と「大望」と「教会報」が入っていた。
もちろん頼んだ覚えも連絡もなく、勝手に送りつけられた。 「諭達」は、天理教の重要なイベントを迎える際に、
真柱(天理教のトップ)から信者に向けて発表される所信表明文である。
重要なイベントとは3年後に教祖が誕生してから130年の区切りを迎えることである。
天理教では「3年1000日」という概念があり、
イベントの3年前から準備を始めることが多い。
3年は1095日だから1000日からは1割近くもオーバーしていることになるが、
理由は分からない。
「諭達」は天理教人向けの所信表明であり、
外にいる私にはあまり言葉の意味が理解できない。
一つ分かったことは全国のほとんどの教会に掲げてある「感謝•慎み•助け合い」という
スローガンが書かれた垂れ幕は、天理教人に向けてのものだということである。
「諭達」から私が読み取れたのは「天理教人よ、感謝、慎み、助け合いをしろよ」って
ことなんだと思う。
https://sites.google.com/site/yutatu3rd/ 「大望」というのは、天理教の青年部が発行するA5サイズ?で厚さ3mmほどの
小冊子である。驚いたことが2点あった。
一つは、これが月刊誌であるとういことである。
我が家には年に2、3回しか届かない。加えて100円もするようだ。
天理時報のように、もちろん購読申請していないし、お金も払っていないので、
数ヶ月に1度でも文句は言えない。
もう一つ驚いたことに、今月号に作家、適菜収のエッセイが載っていることである。
彼は哲学者ニーチェに関する著書をいくつか書いている。
「大望」では当たり障りのない文章であったが、
私が時折目にする産経新聞での記事では、愛国保守というべきか、
タカ派というべきか、非常に攻撃的色彩が強い。私が驚いたことは彼の思想ではない。
彼の思想を天理教の媒体が採用していることである。彼
のブログを見ても政治色が強く、かつ攻撃的である。 天理教青年部が、なぜ攻撃的な思想の持ち主に記事を依頼したのか。
理由を考えてみると
@天理教青年部は執筆依頼をした人間を間違えてしまった
A天理教青年部に存在する「改革的気運」を反映したかった。
私にはこの2点しか思い浮かばない。
@であれば残念な組織であるが、Aであれば古典的な既成組織に新しい風を送ろうと
しているのかもしれない。
しかし、まぁ私の知る限りにおいて、「ニーチェやゲーテならこう言うだろう」という
点においては勉強になるが、彼の思想が市場や論壇に定着しているとは
言い難いので@が妥当かなと思う。
天理教青年部編集者は、彼の書籍や思想をちゃんと下調べしたのだろうか疑問である。 もし天理教青年部が「天理教批判されようとも天理教も変わっていかないといけない。
ここはきちんと改革的思想を表現してもらおう」と執筆依頼したのであれば私は評価
したい。
私に執筆依頼してくれれば、硬直した天理教組織批評ならいくらでも書くんだけど。 青年会発行の雑誌は、月刊誌「大望」と季刊誌「あらきとうりょう」があります。
だいたい青年会の出版物に執筆される著名人は、適菜収さんはじめ、
いわゆる「保守的」で右寄りな文化人が多いです。青年会主催の講演会しかりです。
たとえば、西部邁、渡部昇一、日下公人、石井英夫、堺屋太一、西尾幹二、
手嶋龍一、金美麗などなど。
他にもいらっしゃいますが、まぁバックナンバーをご覧頂いたら、
そうそうたる保守論客が登場されています。
思うに、伝統とか忠義とか、
親孝行ということに天理教の教えや体制が共通しているのかなと。
間違っても、田嶋陽子や上野千鶴子などは教内機関誌に執筆しないでしょう。
*産経新聞の「正論」に執筆されてるメンバーが多いのかな?
ちなみに天理教の教会育ちの学者で遺伝子の権威・筑波大学名誉教授の
村上和雄さんも正論メンバーです。 しょうじきいって青年会本部は完全な守旧派ばかり。
教団改革の意識なんて何もないですよ。
だって、連中はみな本部員とか大教会子弟ばかりですからね。
改革されたら困る立場の人たちなんです。
一番、あらきとうりょうらしくないのがこの青年会本部だと思う。 むかし、保守派の論客の大日本帝国憲法を復活せよ(うろおぼえですが)といった
内容の文章をあらきとうりょうが載せたときは、こけました。
また、弾圧されたいの?。
青年会の発想には、あらきとりょうが誕生したころから、どこか、
特高に近いように思います。
民主主義・自由主義大嫌い。→慎み大好き。結局、慎みはことあげ禁止です。 天理教青年会はあらきとうりょうにあらず、かれきとうりょう(枯れ木棟梁)である。
他のコメントにもあったように、青年会本部は改革や改良や新企画をだそうなどという意識は全く無く、
ただ親の言うことを鵜呑みにすることが、すなおと解釈し、なんの覇気も感じられない正に
枯れた若者の集まりである。
そんな青年会に魅力を感じる者がいるだろうか。
青年会総会に人が集まらないことを、ただ何の策もなく嘆くだけでなく、原点にもどって考えてみたらどうだろうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています