>>380
清水寺縁起絵巻
室町時代・永正14年(1517)

に多数描かれている蝦夷方の白地に赤丸は、舟板を白く塗って赤丸を描いたように見えるのですね。
1056年に源頼義が後冷泉天皇より下賜された甲斐源氏武田家の日の丸御旗のように旗印として掲げられた日の丸の旗が清水寺縁起絵巻には描かれていなかったと思います。(詳しい方がいらしたら教えて下さい。自信が無かったからネットで調べ直してたら、清水寺縁起絵巻断簡の掛軸仕立てが売りに出てました!?)
船を白く塗って赤丸を書き加えた?赤丸描いた白布を貼った?
ちょっと不自然なのです。

で、描いた土佐光信は、白地の赤丸を日輪と意識していて日の丸として描いているはずです。
坂上田村麻呂が、日本の中央と刻んだと伝えられている壷の碑は有名な歌枕ですし、より直接的には、北海道東部の蝦夷を日ノモト、西部の蝦夷を唐子、南部の土人を渡党と呼称している『諏訪大明神絵詞』(1356年)に記されている認識です。清水寺縁起絵巻の蝦夷の容姿は『諏訪大明神絵詞』の日ノモトや唐子の容姿。装備は唐子から連想して大陸風、日の丸は日ノモトからの連想で、当時は既に普及していた白地日の丸が描かれたと見るべきでしょう。