開祖派の人たちというのは、開祖の筆先を盲信し、真冬でも水垢離をするような熱心な人たちではありますが、進歩的な風潮を嫌い、漢字で神の教えを書いてはいけないだとか、お筆先に「世の中真っ暗がりであるぞよ」とあれば昼間でも提灯をつける、「道の真ん中を歩いてくだされよ」とあれば、道路の真ん中を通って馬車もよけず、やむなく馬車が道を譲ると「どうじゃ、神様の力はすごいものじゃ」というような人たちでした。

これに対して王仁三郎は、皆が水垢離をしていても「わしはカエルやない」と言って絶対に参加せず、「こっちのほうが汚れがよう落ちる」と言ってお風呂に入るという町史でした。ですから、生真面目ななおや開祖派の人たちから見れば、王仁三郎の言動は体主霊従の悪の身魂にしか見えませんでした。

そして、大本には「型の仕組み」という考え方があり、出口家に現れたことは大本に現れ、大本に現れたことは日本に現れ、日本に現れたことは世界に現れる、とされます。つまり、出口家で善が悪に勝つという型を作れば、それが大本に現れ、さらに日本、世界に現れて、最終的に善が悪に勝つということになるというわけです。

それで、開祖派の人々は、まず体主霊従の身魂になってしまっている王仁三郎が改心し、本来の変性女子の御魂になることができれば、世界の立替え立直しが成就すると考えていました。逆に、王仁三郎のほうからすれば、開祖が王仁三郎の神格と使命を理解し、それに協力して御神業を成し遂げていくようにしなければならないという立場です。

それで、二人が神懸かりになると、双方に懸かった天照大神と素盞嗚尊が互いの改心を迫りました。その激しい有り様は「金神さんの喧嘩」として近所に知られていたそうです。