カルマの法則は真実だろうか?
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初めまして、メグと申します。
スピリチュアル板でもカルマの法則に関してご質問をお受けしていたのですが、こちらでもお受けすることにいたしました。
需要があるか分かりませんが、こちらでもカルマの法則に関するスレを立てさせて頂きます。
何かご質問があればお願いいたします。
他、カルマの法則や、この世に存在すると感じられる法則に関する意見交換など、ご自由に発言して頂ければ幸いです。
派生元スレ 貯金ゼロまで寄付してみたらこの世とあの世の仕組みを一部教えてもらえた(ただ寄付のみやるのは推奨しません)
↓
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/spiritual/1612314339/ 例えばさー
人間が生きてるだけで、たくさんの生き物が死ぬよね
別に悪意がなくてもさ、地球上の食事をする生物は
ほかの生物に苦痛を与えないと、生存すらできない だからといって、食われたり殺されたりするのは
みんな嫌だし、自我を持つ生き物が
そういう事をされれば嫌になるよね カルマって
なんかすごく自我を持つ生物特有ぽくないですかね
なんていうか、思い込み、こだわりなんだけども
それが事実だと思うと機能しちゃう感じ 一人の人間が、殺人を犯したとする。
その人間の生まれ育った環境、親、資源、前世、エネルギー状態
などなど多次元に渡る領域まで責任を追及すると
そもそも、こんなもの、誰がどう裁けるというのか 例えば超完璧な演算能力を持つ
超宇宙人みたいな人がいたとして
その人は、どうしたら自分が完璧に正しいと
証明できるのか。
これは仮説ですが
カルマというのは疑わしい設定や思い込みや傾向に
過ぎないのではないでしょうか >>54
最後の三行に賛成します。
あらゆる全てを見て考えて認識している側の問題なのだと。 44だが基本的な事を一つ
何を得てもどんな喜びも魂を満たす事は出来ないんだ
例え高次元な意識でも存在でもそれは同じ
ただ凪だけが満たす事が出来る
静寂或いは沈黙は神の創造の中でも特に優れてる 神が世界を創造しようとした時
同時に創造されたもの全てが神に戻ろうとする力が生じた
その内知識は特に動きが多く神から最も遠く離れていた 世界は器で宇宙も星も生命も器だ
神の性質を独自に体現するための。
しかしそれら全てに境界を置き個々に区別することでカルマが生まれた
つまりカルマとは世界そのものなんだ この世界は因果と信仰心により創られて成り立っているんじゃない?
因果は視えませんか? >>49
> 私達の怒りにも似た神への想いも私は悪いものだとは思いません。
> 真剣な想いは必ず次に繋がると思うのです
これは私もそうあってほしいと思ってる
あんな凄惨な事件をカルマで片付けてもらっては堪らないよ
長い目で見て意味があることだとしても当事者にとっては本当にどうでもいい事
被害者は全人類の意識改革の為の生け贄だから仕方ないって言ってるように聞こえる いじめられた人の過去やいじめた人の未来が観えると
どうなるだろうね 殺した人と殺された人、過去世では同じ当人同士が逆の立場だったという宗教家の説
その両者は両者の立場を認識したはず? MOXの放射能で高速回転でのろいにする
のろいと放射能は、関係がある 外歩いてたらカラスにフンを落とされて、
さらに車にもイタズラでフンを落とされていた
完全にナメられている
動物にすらナメられている
何か悪いことをした記憶も無い
路肩のアンケートでも道を尋ねられる時も、
人間関係のいじめにしても、相手の態度の取り方にしても
真っ先にこちらがターゲットにされるし、
こういうのってカルマ的な解釈ではどうなるんだろう? 被害妄想をカルマの法則のせいにするのは甘えだと思います。 甘えというよりも、
せっかくオカルト板に書き込んでいるんだから、カルマの法則を通しての解釈を頂きたかっただけなのだが、、 何の関係もないことをひとまとめにしてカルマ云々とは甘え。
虐められたくなければ体を鍛え、知性が足りなければそれを補う。
それをせずにカルマの法則のせいにしようとは怠惰そのもの。 まず人は、
道を訪ねる時は優しそうな無害な人間(よく言えば親切な人)
を選ぶし、
パワハラを起こすのも、
相手を怒鳴りつける時も、
説教をする時も
人をからかう時も
町内会の役員を選ぶ時も
反発しなさそうな、"無害そうな" 人を選ぶ
この世のありとあらゆる人間が
何気ない選択を行うときに起こる原理は、
無差別殺人で犯人が"無意識"に反撃されなさそうな人を
選ぶのと同様であると思う
何気ない選択でおこる、無意識下のこうした加害者と被害者の関係のカルマは何なんだろう? つまり、カラスは関係ないということになる。
そして、反発しそうにない人を選んでいる時点で
それは無意識ではなく意識的な選択に他ならない。
すべて前提や設定が結論ありきの残念な話。 われわれ人間のありとあらゆる行為・行動にカルマの法則が働くのであれば、
特定の事象を取り出して、それが特定のカルマによって引き起こされていると
考えることは傲慢に過ぎる。一体どれだけのカルマが原因となっているかは
調べようがないはずです。 このスレ主さんのいわれるカルマの法則とは、
「自分がしたことはいずれ自分自身に還ってくる」
というもののようです。
ならば、連続殺人犯は10人、50人と無辜の民を
殺害したことにより、その後、10回、50回と殺される来世が
待っているのでしょうか。
連続殺人犯といえども存命中に功徳を積むことにより
カルマを少しでも解消できるというのでしょうか。
ならば、連続殺人犯を死刑に処すことはその犯人に対する
魂レベルの救済となりましょう。少なくとも1つその犯人のカルマを
解消してあげたことになるのですから。
この考え方はあのオウム真理教が採用していた「ポア」の概念です。 確かにそうですね
貴方の仰っている言葉には隙が無い、感心した
答えてくれてありがとう カルマの法則に関する議論が活発化して、とても嬉しいです!
議論の邪魔をしないように、僕自身が全ての方に返信するという形はストップさせて頂きますね。
(名指しでご質問を頂ければお答えさせて頂きます)
『カルマの法則がそもそも存在しない』という思想も非常に興味深く、大きな可能性を感じます。
ただ、この思想に関しても”論理”にしろ”現象による根拠”にしろ、それらが無ければ発展しづらいように思います。
この場合、検証するためには人道的に観て明らかに悪い事・明らかに良い事をした際に、自身に対してどのような影響があるかを分析するのが分かりやすいかもしれません。
行為の影響が人格(自身)に返らず、その後の精神に何も影響が及ばないのであれば、カルマの法則は無いと思います。
自身の行為の影響は自分に波及しなかった(自分のした事が自身に返って来なかった)のですから。
ただ、自身の行為の影響が人格に返り、人格の変質によって過去と違うような現象が起こる回数が有意に多いのであればカルマの法則があると思います。
その回数が有意に多いのであれば、そこには何らかの原理があると考える、というのが裏付けにあたって重要だと考えました。 >>73で検証方法について書かせて頂いたので、僕自身の検証結果の一部をお伝えしていきます。
カルマの法則を検証するためにまず始めたのは当時の職場の人に日々、食べ物を差し入れたらどうなるか?ということでした。
これは自身の人格に”コミュニケーションの積極性”にプラスという影響を感じ、物的には食べ物や遊びの誘いという形で返ってくる事が多かったです。
ただ、ある所までやると、「悪いからもういらないよ」と言いう人が増えたので中止しました。
次はお金を無償で人に分け与える行為(寄付)によって検証を始めました。
簡潔には書けない様々な経緯があり、自身の人格に”自立心”や”思い切り”、”思考力”がプラスされ、結果的に自営業が上手くいきました。
(しかし、その後、寄付行為には物的な見返りはあまりないものと考えています※ただ、条件しだいではあり得るとも考えています)
次に、人に人を紹介してみたら自身の人脈は増えるのか?という検証をしてみました。
これはかなり増えました。
人格に対しては”積極性”や”ユーモア”や”無責任さ”といった性質がプラスになったように思います。
他には、人に知識を与えたら自身に知識で返ってくるのかという検証をしてみました。
その結果、単的に言うと、相手に与えた知識の分野と同質の知識がより増えるという結論が得られました。
ただ、知識の増加以上に、根本の思考力の向上効果があるように感じました。
他にも様々な検証をしてみたのですが、その結果、自身のした行為は自身の人格においても物的にも、大きな変化を及ぼすと結論づけています。
しかし、それはあくまでも僕の結果です。
他の方々にも同様の原理が働くのか?という点が、カルマの法則の存在の有無を決定づけるものだと考えています。 ホームレスの人に5000円あげたら、
その日のうちに母から5000円貰うという変なことはあった >>73
その行為の反響だと判断する理由を教えて下さい
なにもしなかった場合と比較できないところがカルマ立証のハードルだと思う スレ主さんの実践した具体的な事例を読むと、
職場の方に食べ物を差し入れたらお返しがあった。
しかし相手の負担(重荷)になるから中止になったので
カルマの法則としてはどうなのでしょう。
次に、お金を寄付することにしたら精神面にプラス効果があったが、
寄付した金額に見合うだけのリターンはない。
他者に人を紹介することを実践すると人脈は増えたとありますが、
こちらは当たり前のことではないかと思います。
精神面でもプラスがあった半面、トラブルは発生しなかったでしょうか。
自分の持つ知識を他者に与えることを実践したら、自分が持つ知識と
同ジャンルの知識が増えたとあります。これは単純に相手との
コミュニケーションが増した結果ではないでしょうか。 >>76様
興味深いご質問を頂きありがとうございます。
これは分析を進める上で、とても大切な視点だと思います。
自身のした行為による相手の直接的な反応・また、その行為による記憶がその後の行動に影響を与えていれば、それはその行為の反響と観ています。
”過去の記憶を元に未来の行動する”というのは人間の精神活動にとって当たり前なのですが、僕はこれほどにカルマの法則が当たり前に働いていると結論づけております。
例えば、カルマの法則を検証するために、周囲に愛情深い言葉をかけてみるというのを実行してみました。
当時の僕はニートも同然でしたので、母親に対して「今はこんな感じだけど、いつか楽をさせてあげるからね」と勇気を持って言ってみました。
(当時の僕にとってはこういう事を言うのが勇気のいる事だったのです)
父親にも「守ってくれてありがとう(経済的な意味で)」という言葉を伝えました。
その結果、親との関係が良くなり、親との関係で”言った方が良い事を言えるようになった”という体験は、なぜか、他の人間関係に効果が波及しました。
他の人に対する愛情が湧きやすくなり少し人から好かれやすくなりました。
その背景には”親に対して愛を表現した”という記憶が大きく影響していて、このように、記憶を元に何らかの感覚が広がれば、それはその行為による反響と観ています。
寄付なども同様に、”お金を無償で人に与えた”という記憶が、その先に自営業にとって重要な「相手目線」(相手の立場で考える)という事に繋がれば、それは寄付行為の反響であると観ます。 >>77様
疑問に思う事を明らかにして頂けると、とても助かります!
本当にありがとうございます。
>>職場の方に食べ物を差し入れたらお返しがあった。
しかし相手の負担(重荷)になるから中止になったので
カルマの法則としてはどうなのでしょう。
周囲の人に対して食べ物を与え続けるのは、完全に良い行為では無いので、しだいにそれがストップされるように人生展開が生まれるのはカルマの法則に適っていると考えています。
>>お金を寄付することにしたら精神面にプラス効果があったが、
寄付した金額に見合うだけのリターンはない。
寄付により”生活費より過剰な収入を得たい”という事であれば、寄付によるリターンが無かったという事になります。
(ただ、当時の検証の場合は、結果として過剰な収入に繋がっていましたが)
過剰な収入が得られたか?という判断基準であるとそうなのですが、寄付行為による快感の記憶により『もっと人に何かを与えられる存在になりたい』『生活費も少ないのに寄付しちゃってどうしよう』という想いが同時に強くなった結果、”お金を稼ぐ力”の方を身に着ける結果になりました。
お金と比べると、当然、お金を稼ぐ力の方が価値がありますので、それが得られた事には繋がっていると思います。
ただ、その後、お金を稼ぐ力より価値があるのは、『お金を節約を楽しめる気持ち』であり、さらに価値があるのは『お金に囚われない精神(貯金残高が幸福度に影響しない)』ことだと結論づけています。
不要なものを過剰に増やすより、不要なものを不要と観れる視点の方が真実に近く、価値は高くなります。
寄付行為はその質が良ければ良いほど、お金より本質的に価値のあるものが手に入る傾向があると考えています。 長くなりましたので、>>79の続きを投稿いたします。
>>他者に人を紹介することを実践すると人脈は増えたとありますが、
こちらは当たり前のことではないかと思います。
精神面でもプラスがあった半面、トラブルは発生しなかったでしょうか。
”当たり前”と思われる返報性の部分にも、僕はカルマの法則が働いていると思います。
もし、「人に与えたものが相手から返してもらえるのが当たり前」と判断するのであれば、逆に、それはカルマの法則が働いていると判断するのが良いと思います。
(実際は、直接与えたものと同質のものが相手から返ってこない事は多いと僕は考えています)
幸い、僕が観た限りでは大きなトラブルは発生していないのですが、食べ物を与える行為と同様に、ずっとやり続けるほどに完全に良い行為とは思えませんでした。
まだやっていない人は、実行してみても良いと思いますが、終生やり続けられるものではないと思います。
>>自分の持つ知識を他者に与えることを実践したら、自分が持つ知識と
同ジャンルの知識が増えたとあります。これは単純に相手との
コミュニケーションが増した結果ではないでしょうか。
これに関しては、手段がネットを通じた情報配信だった事もあり、相手との交流はほぼありませんでした。
そのため、コミュニケーションによるものでは無いと思います。
かなり感覚的な言い方になるのですが、人に情報を与えるほどに、なぜか、自身の思考が動き出し”現象から情報を見出し、それを人に提供する”ということがやりやすくなりました。
人に知識を与える事は、自身の根本の思考力の向上効果があると感じたのはそのためです。
ちなみに、人に知識を与えると異様に記憶に定着しやすくなるのは、いくらかカルマの法則との関連を示すものの一つな気はしています。 >>78
レスありがとう
行為の直接的な反響ですが、それをカルマだと大仰な言い方で表現しているのかな?
周囲に愛を表現する行為に付随した効果は原因と結果であってカルマと呼ぶには至らないものではありませんか?
思ってもいない形に変換され自分に返ってくる業のようなものをカルマだと認識していたのであのような質問になりました
人道的な思考、選択とはあくまで人間の視点にすぎませんから、都合のいい解釈をもって物事に意味を見いだす行為は自己満足に他ありませんよね
カルマについてですが、犬の躾と一緒でいけない行為はその場で正さなければ時を隔てて叱ったところで関連つけられず理解できないことと同じではありませんか? >>79
カルマの法則とは、「自分がしたことはいずれ自分に還ってくる」だったはず。
それがなぜか、「よい行為でない場合はそれがストップされるように展開する」
という解釈?になっており不適当では?
スレ主さんがいう「お金を寄付したことが収入アップに直結する」という根拠がどこにもないのです。
カルマの法則とは、いつになるか不明なものの、「いずれ自分がしたことが自分自身に還ってくる」
でしょうから故意に何かを期待して原因を作るというものではないはずですが、いかがでしょうか。
カルマの法則とは打算的・即物的なものではないと理解しています。ですから
カルマの法則を期待して誰かを蔑んだり、自分の未来を期待するものではないと思います。
打算的な思いはカルマの法則によって打算的な結果をもたらすからです。
スレ主さんの目的とその行為は、「呪い」に通じるものだとわかってきました。
呪いの代償を先に払うことで呪いを現実化しようとすることに通じます。 >>81様
引き続きご質問を頂きありがとうございます。
とても良いご質問が多いので感銘を受けました。
81様の仰る【思ってもいない形に変換され自分に返ってくる業のようなもの】というカルマの法則の観点は正しいと思います。
事実、人間が論理で追える部分が1に対して、1万以上の部分が上記のものに該当するのではないかと考えています。
こうした議論の場では論理で追えるテーマに限ってお話した方が良いかと思い、特定の行為が未来に特定の影響を及ぼす事が確認できることを立証する一つとして”過去の行為により出来た記憶により、自身の人格に変化が加わり、未来の行動に変化が出る”(自身の行為の影響が自身に返ってくる)という部分をお伝えしていました。
ですので、カルマとは思ってもみない形で返ってくる事の方が多いのは間違いないと思います。
これに関しては、https://fate.5ch.net/test/read.cgi/spiritual/1612314339/のスレで多くを解説させて頂いております。
(もちろん、書かせて頂いているのは、現状の僕の思想の範囲での事です)
もし、僕の考えるカルマの法則における、身近な人々のやり取りの中での原因と結果以外の部分をお聞きになりたい場合は、ご質問を頂ければお答えさせて頂きますね。
それで、カルマをどのように捉えるかは人により様々なのだと思います。
僕の場合ですと、身近な人とのやり取りにおける原因と結果という部分から、前世の行いと今世の報い、自我からの脱却、といった遠大な部分まで含めてカルマの法則の範疇で考えております。
人道的な思考については人間の視点なのですが、人間の行為に対し”人間を超えた存在や原理による、何らかの効力がある”とすれば、それは人間の視点による行為と切り捨てられない事情が出てくると思います。
81様の仰る通り、カルマの法則が仮に存在するとして、人間が定める人道的に良い行為に報いるとは限りません。
検証するにあたって分かりやすいという理由から、人道的に明らかに良いか悪い行為による影響から分析するのが良いという考えを書かせて頂いた次第です。 >>82様
ご質問を頂き本当にありがとうございます!
少し文字数制限に引っ掛かりましたので、2つに分けて書き込みしますね。
【自分がしたことはいずれ自分に還ってくる】という事と、【よい行為ではない場合はそれがストップされるように展開する】という事は両立しえるものだと思います。
というのも、自分がした事がいずれ自分に還ってくるのは人間の進歩を促すための原理であると僕は考えておりまして、何らかの学びが一定に達すれば、過去の”善行と思っていた行為”のマイナス部分を自発的に理解できるか、理解できるように人生展開が起こると考えているからです。
それで、寄付についてなのですが、僕は寄付したことが収入アップに直結するという主張はしていないつもりでした。
僕自身は”風が吹けば桶屋が儲かる”のような様々な因果関係が働き、結果として収入アップに繋がったかもしれませんが、寄付=収入アップ、はまずあり得ないと僕も考えています。
以前、僕は200人前後の人と寄付による効果を分析した事があるのですが、その際に多かったのは「過去に関心を持っていた事に関心が無くなったこと」や「過去に偏見を持っていた対象に対して、偏見が少なくなる」(偏見対象であった存在と近い状態に自身がなる)といったことが多かったです。
ただ、僕の経験のみの根拠でしか無いのですが、寄付先の選定と寄付の動機や実践環境しだいで、その影響は異なるように思います。
>>「いずれ自分がしたことが自分自身に還ってくる」
でしょうから故意に何かを期待して原因を作るというものではないはずですが、いかがでしょうか。
これに関しては様々な人の見解がある点なのではないでしょうか。
僕個人としては、見返りを期待する気持ちが少しあっても相手のためにやってあげたければやった方が良いと思います。
というのも、カルマの法則には”見返りを期待する弱さ”までも除去していく原理があると考えているからです。
僕自身の経験上では《見返りを期待するのは良くないから、その気持ちがあれば人の為になる事はしない》というのも、保身(打算)が入るように感じました。 >>スレ主さんの目的とその行為は、「呪い」に通じるものだとわかってきました。
これは考えた事も無い、斬新なご意見でした!教えて頂き本当にありがとうございます。
理解しがたい面が多いので、差支えが無ければ”呪い”の定義について教えて頂いても宜しいでしょうか?
僕の呪いの定義は”他者に対して損害を与えるために超常的な力を用いること”です。
82様の呪いの定義が分かれば、82様の思想を掘り下げて理解することができるように思います。 >>85
自分が幸せになりたいと願うことと、他者が不幸になってほしいと願うことは
「願う」という行為においては同じなのです。ただ、願いの内容が異なるだけです。
呪いとは自分を呪う人もいるかもしれませんが、他者を呪うことが通常です。
自分はこうしてほしいと願うことにおいて、他者に不幸が訪れてほしいと願うのです。
そして呪いには代償が伴います。「人を呪わば穴二つ」がそれです。
呪いを成就させる超常的な存在はその見返りを期待しているわけです。 >>86様
とても参考になります!
ただ、正確に理解できているかは分かりませんので、もう一度質問をお願いできますでしょうか?
(もし、お忙しいようであれば、スルーして頂いても結構です)
『自身への恵みを望むのは、他の人が損失を被ることなので、自身の未来の恵みを期待し原因を作ろうとするのは呪いを実践する事である』ということでしょうか? >>87
その通りです。
私も過去に何度か密教系の僧侶に呪詛を依頼した経験があります。
「有能で人望のある同僚が目障りだから蹴落としたい」
「私を毛嫌いする女を懲らしめて懇ろな仲になりたい」
「私を左遷させた上司に失敗させ、そのポストに就きたい」
などは他者のマイナスを自分のプラスに転嫁させる類の願いですから、
それなりの金額という代償を支払うことによって呪詛が成就しました。
超常的な存在が代償として命を要求してくるのは、呪詛する相手に対して
致命傷をもたらすことにより我欲を成就させるような場合に限られます。
ですから復讐を呪詛する場合は致命傷が相応ならば「人を呪わば穴二つ」
とはなりません。呪術者が頼る超常的な存在の種類にもよりますがね。 >>88様
『自身の恵みを望む事は他者の損失を望む事』という着眼点が実に見事だと感じました。
人生経験に裏打ちされた素晴らしいご意見です。
僕も物的な面に限れば、人間の願望成就に際しそのような面があるのが事実だと思います。
ただ、僕の場合、カルマの法則は精神面での見返りが主であり、物的見返りに対してあまり報いないと考えています。
82様の仰る通りの理由で、自身の行為が他者の損害に繋がる場合、心に優しさを持つ人であるほど潜在意識によるストップか・その行為が失敗するように導かれる傾向があります。
これはカルマの法則による人格面での保護作用のためと考えていまして、カルマの法則に期待できるとすれば人格面の見返りが主になると思います。
この場合は自身の恵みを望むことが他者に損害を与えるものではありません。
例えば、感情的なAさんが「自身の感情をコントロールできるようになりたい」と願い、それが叶えられる事はAさんの周囲の人の幸福につながることだと思います。
過去、自身や他者を分析してきた結果、カルマの法則は”自分と世界全体にとって真に価値のある事が得られるよう後押しする法則”でもあると考えています。
あらゆる幸福は恵みは精神(人格)より生まれるため、恵まれた物的環境よりも”幸福や恵みが生じやすい精神”の方が価値が高く、得られやすくなります。
またそれは他の誰かの幸福に必ず繋がるようになっているように思います。
ただ、物的な願望を持ち、その成就のため精神(人格)を磨くプロセスは誰しも必ず存在しているのもまた事実だと思います。
例えば、消極性の高い人が夢を叶えるために”積極的な行動”を勇気を持って行い、自身の精神を進歩させることは善の一つの形だと僕は考えています。
その願望の質により他者に与える影響は様々でしょうが、0か100かのような判断ではなく、その行為の評価点が10であっても、人間は徐々に全体にとって良い形を目指すことができると思います。
(本能的に、人間は全体にとってより良い選択を目指す傾向があるので長期的にはそうなると思います) >>88
目障りだから、毛嫌いされているからの理由で大金払って呪い飛ばすとかヤバない?
スレチになっちゃうけど気になって。あなたのレスを聡明で常識のある方なんだろうなって読んでたんだけど、いきなり呪いときて「!?」となりました笑 >>90
一見こいつは聡明で常識のあると思うだけで実際は「闘将!!拉麵男」の怒雷拳士みたいな奴だで
凄いことを言っているように思えるだけで実際は現実が視えてないし大して霊的な力も無いよ
貯金ゼロまで寄付してみたらこの世とあの世の仕組みを一部教えてもらえた(ただ寄付のみやるのは推奨しません)
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/spiritual/1612314339/
590メグ2021/03/18(木) 10:05:42.15ID:qy7qZhz6>>593
>>583様
素晴らしいご意見を頂き本当にありがとうございます。
583様のご意見はとても正しいと思います。
このタイミングでご指摘頂けて非常に良かったです。
おっしゃる通り、当時の実践法は間違っていたと思います。
なぜ、その間違いが生じたのかを僕なりに分析しお伝えします。
当時(29〜30歳まで)の僕は野心が強すぎて外の成功ばかり追い求めていました。
妻のことを大切にするという信念はあったのですが、人前で”ハーレムを作る”とか公言したり、非常に問題のある行動が目立っていました。
(複数の女性を同時に大切にできると思っていたようです)
それが寄付の額を多くして見た結果、性欲が薄くなりハーレムを作ることに虚しさを感じ始め、妻との関わりや育児が楽しくなってきました。 こいつのYoutubeチャンネル見ていても「なんだこのおっさん!?」ってギャップに驚くで
839メグ2021/04/12(月) 17:12:24.84ID:SkQNShN5
本日からyoutube上でカルマの法則に関する動画を配信することにしました。
youtube上で「oneworld カルマ」と検索すると、僕が話している動画が見つかると思います。
たかひろと名乗っていますが、それは僕の本名の名前です。(メグ=たかひろ)
文字だけだと難解になりやすいので、動画では資料を用いて分かりやすく伝えられたらいいなと思っています。
今後も5ちゃんねるでカルマの法則について広めたり、内容を議論したり、誰かのご相談に乗ったりなどは続けていきますので、今後とも宜しくお願いいたします。 メグは実際は羊の皮を被った狼だからスピリチュアル関係で金儲けをするのは向いているよ
俺は現実離れした壮大な綺麗事で金をせしめたりすることに良心の呵責を覚えるもん >>93,92,91様
僕のチャンネルまでご覧頂けていたようでとても嬉しいです!
外見に気を使うのが苦手でして、ご不快に思われる点があれば大変申し訳ないです。
もし、そのような点があればご指摘頂ければ幸いです。
ちなみに、ハーレムのくだりを改めてみると、ちょっとおもしろいですね。 >>95様
ご指摘を頂き本当にありがとうございます。
リンクまで掲載して頂きとても光栄です!
oneworldって単語はイルミナティと関係があるんですね。
初めて知りました.....
貴重な情報を頂き本当にありがとうございます。
名付けた際には”一つの世界”という意味を意識しておりました。
英語に詳しくないし、別に単語の意味が間違っていてもいいやと名付けたら、イルミナティと関連する単語だったんですね。
「これはあくまでも僕という個人の思想」(思想の多様性は素晴らしい)という想いを込めておりましたが、今後、不快に思う人が多ければチャンネル名の変更を検討しようと思います。
教えて頂き感謝いたします。
95様は単語と秘密結社の関係性など、よくご存じですね。
また何かあれば教えて頂ければ幸いです。 >>91
>>90はスレ主のことじゃないよ。
YouTubeでの顔出しって内容的に必要性感じないんだけどなにか理由があるのかな。正直言って二番煎じ三番煎じの目新しさのなさが伸び悩む敗因だと思います。 >>97様
率直にご意見を頂けてとても嬉しいです!
非常に参考になります。
youtubeでの顔出しの理由については、特に、顔を隠す理由が無かったためです。
僕の場合、保身の余地があると潜在意識から上がってくる情報が少なくなるという認識があるため、どちらかといえば、顔出しの方が保身が少なくなるかなと判断しました。
保身を無くすなら本名も明かせば良いと思ったのですが、以前、ネットで本名により活動をしていたので、こうしたカルマの法則に関する活動が”以前の活動に対する宣伝”のように思われる可能性が高いため、本名を明かしていません。
(本名については以前の活動で関わった人が多いため、その誰かを通じて明かされる結果になると思いますが)
目新しさの無さはとてもよく分かります。
ゼロから初めてプロになるのは5年〜20年かかる分野も多いと思いますので、動画もそのぐらい長期で試行錯誤を繰り返していけたらと思っています。
ただ、youtubeのプロを目指すこと自体は目的では無いので、手段に拘らず、少しでも誰かの役に立てる道を日々模索してます。 >>90
私は「聡明で常識がある」からこそ呪術によって困難を克服してきたのです。
現代においても権力者は権謀術策を実行する際に呪術を併用するのですよ?
庶民は知らないでしょうが、権力者は能力の高い呪術師に伝手があります。
私は権力者の縁戚なので密教系の高僧を紹介して貰えたというわけです。
現実世界における困難を克服するための道具として呪詛を用いることは、
超常的な存在を知っている者のみに与えられた特権だと思っております。 >>98
自分にはハマらなかったけど誰かの為に活動がんばって下さい。
>>99
あなたに謎の選民意識があるのは分かった分かった。 >>41
荒らされる前のスピ板なんて偽善者と統失が傷舐めあってるようなゴミスレばっかりで大して価値なかったぞ めぐさん初めまして。私は20年くらい前に会社の同僚にいじめられて、そこからうつ病になり、回復してきた現在も楽しい•嬉しいという気もちがわきません。
カルマだとすれば何をすればこのつらさが治りますか? めぐさん初めまして。私は20年くらい前に会社の同僚にいじめられて、そこからうつ病になり、回復してきた現在も楽しい•嬉しいという気もちがわきません。
カルマだとすれば何をすればこのつらさが治りますか? >>100様
youtubeについて素晴らしい助言を頂き感謝しております。
はい!微力ながら、一生涯を通じて尽力していきたいと思います。 >>101様
そうなんですね!
5ちゃんねるに詳しくないものでして、教えて頂きありがとうございます。
匿名掲示板のやり取りを拝見すると、様々な角度からの意見が折り重なり、真理のような物が垣間見える事があります。
荒らしという行為も含めてとても興味深いです。 変態佐藤一家が動物殺害した後
コイツの空き家に何故か糞みてーな変な植物が生える
エイリアンみたいな雑草やバケモノみたいな木
更に木が突然倒れた事もある
ケガレた土地には変な物が生え、木が倒れる あのう、私は>>82を投稿した者ですが、ID:vd+1CsfH0の人物と同一ではありませんのでご注意ください。
ID:vd+1CsfH0は、「鈴木嘘松」と命名されておる無職のオッサンです。
私のマネをすることに人生を奉げている可哀そうな輩ですのでご注意ください。
> 205 本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2020/08/26(水) 23:54:33.41 ID:1HOeihul0
> 199
> 物部直系の清和源氏〇〇一族の末裔であるこの俺に高みから偉そうな口を利くな
> 二千年以上にわたって高潔な血統を汚すこと無く継承してきてるんだ、判るか?
負の霊団や悪魔について 令和その3
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1593778000/
> 592 本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2020/09/07(月) 23:02:17.34 ID:f2wDoWM90
> 586
> ありがとうございます、ご相談があればお聞かせください。
> 私は拝み屋さんとは異なり、荒行を経て加持祈祷の免許皆伝でございます。
> 霊障の類を法力によって退散させることが出来ますので遠慮なくどうぞ。 うつ病の相談であれば医師に相談しましょう。カルマはまったく関係ありません。
虐められたこともまたカルマとは関係ありません。
なんでもカルマのせいにするその心根が諸悪の根源だといわれております。
虐められて凹む人は単純に運動不足だと聞いた覚えがあります。
何かの参考になればと思います。 >>87
>『自身への恵みを望むのは、他の人が損失を被ることなので、自身の未来の恵みを期待し原因を作ろうとするのは呪いを実践する事である』
↑ということではありません。たとえば、「(自分が)結婚できますように」と願うことと、
「アイツが事故にあって死にますように」と願うことは行為として同じだという意味です。
呪いをかけることと、願望成就の祈願をすることは同じことだと述べました。
めぐさんはカルマの法則を願望成就の手段としているように私は受け取ったのです。
ですからそれは呪いと同じだということです。 >>102 由季様
由季様、初めまして。
ご相談を頂き本当にありがとうございます。
少しでもお力になれれば幸いです。
うつ病の辛さを乗り越えてこられた事に敬意を表します。
由季様の場合ですと、幼少期に築かれた性質である”自身が何をしてもダメだ”という諦めの性質を解消するプロセスを行っているように思います。
これは家族関係などで「自身の言った事が相手に理解されなかった」という体験によって形成されたものだと思います。
いじめはうつ病の直接的な引き金かもしれませんが、重要なのは根底にある原因へのアプローチです。
それで改善の方法として取り組みやすいのは、まず、『自己主張を当たり前にできる人間になりたい』と願う事だと思います。
これは由季様の場合ですと、願うほどに長期的には確実に叶っていくものだと思います。
次に大切なのは、108様も仰るように、運動、後、栄養管理なども大切だとは思います。
しかし、これはうつ病であるとハードルが高すぎる場合があるため、やる気が起きない場合は、意味は分からずとも上記の言葉を念じる事が良いと思います。
それでもっとも強力な改善の方法となるのは、他のうつ病の人と交流したり、その相手を励ます事だと思います。
閉塞感を生じさせる精神構造を大きく変える事になるのですが、ややハードルの高い事だと思いますので、長期的に観て、やる気が起きた際に出来たら良い事だと思います。
何かのご参考になれば幸いです。
もし、実情と異なる部分がありましたら、遠慮なくおっしゃって下さい。
修正する中でより良い選択支を見つけられるかもしれません。 >>109様
あれはファンの方による発言だったのですね。
それで、109様の仰る事も非常に興味深いです!
ぜひ、その思想を理解させて頂けたらと思いました。
「結婚できますように」「相手が事故にあって死にますように」と願う事は、”願う”という点において同じである事は理解できました。
この場合ですと、”自身の利益を願う行為が呪い”ということなのでしょうか?
もし、そうであるなら、大部分の人は”自身の利益を願う行為”を元に生活しているがゆえに、ずっと呪いを続けている事になります。
おそらく109様もその全てを呪いと観られるわけではないと思いますので、呪いとそうでない行為の線引きがあると思うのですが、そこの判断基準などがあられるのでしょうか?
過去、触れた事が無い思想ですので、それを理解できる機会に出会えて嬉しく思います。 >>111
>この場合ですと、”自身の利益を願う行為が呪い”ということなのでしょうか?
そういうことになります。
「呪い」と書いて「のろい」とも「まじない」とも読めますからね。
「あの女を振り向かせたい」と願うのは「まじない」となり、
「あの男に仕返しをしたい」と願うのは「のろい」となります。
どちらも「自分の意図する結果に相手を誘導したい」と願う点が共通しますね。
その際に「得られる結果に相応しい代償を要する」という点も共通しています。
私は呪術師に相応の金銭を支払うという代償で済む程度の呪いを依頼しました。
それらは現世における商取引として成立したものですからカルマとは無縁です。 >>110
お返事ありがとうございます。
完璧過ぎる程に当たっていました…
私の両親は厳しすぎたのと、子供(私)をバカにして笑うような人間でした。
私はうつ病から発達障害がわかり、他の人は努力しなくても簡単にできたことが沢山あり、ヤル気さえなくなり、頑張ってもできないし、世間からはバカにされるしで、実の両親からもヒマさえあれば殴られていたので大人になってからも話すことができず自閉症の診断が下っていました。
つづきます。 >>112様
興味深い回答を頂き本当にありがとうございます!
参考になります。
呪いとそうでない行為の違いは【他者を自身の意図する結果へと誘導したいと願うかどうか】という点に見出しておられるんですね。
また、その場合、得られる結果に相応の代償を要する.....という認識があられるという事、理解できました。
色々教えて頂き感謝いたします。 >>113様
あまりにも辛い境遇を乗り越えてこられたんですね。
その強さに頭が下がる思いです。
過去の困難の全ては必ず報われるものなのは間違いありません。
未来にはご自身がどれほどの強さ・賢さを手にしていたのかが分かる時が来ると思います。
大部分の人は華やかな成功を望みますが、無力感を乗り越える事に比べればその価値は些細なものです。
ご自身に何も無いように感じても、精神的欠点を把握し、克服につとめる人間をあらゆる面でサポートする法則がこの世にはあります。
あまり気負わずに、ゆっくり前進すれば今回の人生を最高のものにできると思います。 >>114
呪いというのは、いわゆる"他人を祈る"だとか"他人を思いやる"等の行為の正反対に当たるものである、と私は考えています。
メグさんの考えている通り、人の想念は大変強いものであり、扱い方を間違えれば他人だけで無く自分をも犠牲にします。
私の経験上、人にはそれぞれ念が飛ばしやすい人や念が上手く飛ばしにくい人が居ることが分かっております。
「呪ってやりたいのに念が上手く飛ばせない!」と思った昔の念を上手く飛ばせない人達は、呪ってやりたい人を人形や紙などに見立てて、悪い念を飛ばしていたようです。(丑の刻参り等々)
只、念を上手く飛ばせない人は相手の念も感じとりにくい為、結果的にはプラマイゼロと言う事になります。
また、カルマの法則なのか、人を"呪う"など自身の思念を相手に送ると自分の気や幽体などが減ってしまう為、病弱になったり寿命が減ったりしてしまうようです。
念は物などに籠もる事もあり、特に手作りの物や中古の指輪などは長く身に着けていることで、それを持っているだけで悪い事が身の回りで起こることもあるので注意が必要です。 >>116様
とてもお詳しいのですね!
人間の想念は本当に興味深いテーマだと思います。
【念を飛ばしやすい人】と【念を上手く飛ばしにくい人】というのは、あまり考えた事の無いテーマでした。
僕はエネルギーを感知する性質が少なく、エネルギーに対する理解が乏しいと思います。
ですので、116様のお話、とても参考になります。
人を呪うと気や幽体が減るというのも興味深いお話です。
ちなみに、116様は、想念が人に作用するのと同様に【自分自身に対する想念】については、何か作用があると考えておられますか? >>117
そう言って頂けると嬉しいですな!(*´ω`*)
エネルギーとしての"気"は誰しも心身共に無くてはならない物です。気には主に陽気と陰気が存在し、よく心霊スポットなどの廃墟では不気味な感覚がありますよね。そういう所では陰気や邪気が多い為、自然と感じてしまうのです。
念というのはその気を飛ばすための媒体だと私は考えています。ただし、陰キャや陽キャなどその場に居てもそういったオーラなどが溢れている人が居るように、自然と人は気を出しているものです。
その悪い気を身体から出し、良い気を取り込む事で健康長寿でいると言う中国の健康法を"気功"と言います。軟気功とも言いますが、毎日15分程で出来るので良かったら調べて見ては、いかがでしょうか?
良い気や悪い気の感覚を知ることで得るものもあると思います。そして相手に良い気を与える事で病気などを治す人の事を気功整体師と言います。一応、超能力で言うヒーリングと言うものです。
蛇足にはなりますが、陽気の代わりに陰気を相手に与えると、かえって身体の病気が悪化してしまいます。また、気を出し過ぎると気が赤字状態になってしまいます。
気を出す者の精神状態に左右して気の質が変わって来るのも気功の特徴です。
幽体に関しては、幽体離脱後の世界であるアストラル界での肉体の様なものです。呪う人はこの幽体及び生霊の一部(思念)を相手にぶつける事でいわゆる"呪う"ことが出来ます。
"〇〇さんの肩に不気味な手が乗っている"等の心霊写真も幾つも現実に存在しますが、あれも誰かの幽体(思念)なのかもしれませんね。
このように呪いというのは様々な物が複雑に絡んでいると私は考えています。
念というのは、4次元的であり時間や時や場所を超えて伝わります。
つまり"自分自分への想念"と言うのは過去の自分にも未来の自分にも送る事が出来、それをその時の自分は無意識に感じ取っています。
なので辛いときや悲しいとき、何か成し遂げた時や嬉しかった時は自分に対して念を送ってみて下さい!
応援しております!(◡ ω ◡) >>118,116様
様々な事を教えて頂き誠にありがとうございます。
軟気功について調べてみます!
念が時間や時や場所を超えて伝わるというのも興味深いですね。
また、未来の自分にも想念を送れるという考えを前提にしてみると、様々な面において新たな視点が得られる気がしています。
潜在意識から上がってくる情報は”時間”という概念を超えていると感じる時がありまして、もしかしたら、118様の仰る事とも関係があるかもしれませんね。
様々な事を教えて頂くに加えて、応援のお言葉まで頂き、本当に嬉しいです。
ありがとうございます。 >>119
こちらこそ、様々な情報を教えて頂きありがとうございます!
気功を始めるにあたって一つ私がアドバイス出来る事は、気功にも宗教の様に様々な宗派があり中国の長い歴史の中で手法も多様化して来たことです。
気功をやるための1つの手段として誰かに習うと言う事も挙げられますが、これはあまりオススメ出来ません。
と言うもの最近では、気功師を名乗ってお金を搾り取ろうとする輩まで沢山出てくる程です。なので縁が無ければ良い師匠には出会えません。(´;ω;`)
なので、最初は"気の出し方"などを調べて、ある程度感覚を身に着けてから1,000円程で売っている様な書籍などを買ってはいかかでしょうか?
露骨な宣伝では有りますが、"気功革命"と言う書籍は初心者向けであり、やりやすいです。
私自身これを持って毎日励んでおります。
(。•̀ᴗ-)✧
また、"少林内頸一指禅功"と言うある気功法は"気功師になるための気功"とも言われ、中々大変では有りますが、訓練次第では並大抵の人よりも気のレベルが高くなります。<( ̄︶ ̄)>
一応、オカルト板やスピリチュアル板でも気功について幾つかスレが立っていたのでそちらも覗いてみてはいかがてしょうか?
メグさんの気の陰陽のバランスが整えられるよう、重ねて応援させて頂きます!(*´ω`*) >>120様
日々、鍛錬していくと通常では観えない世界が観れそうですね。
気功革命やスピリチュアル板での気功に関するスレを少し覗いてみました。
僕自身、全くもって疎い分野ですので、とても面白いなと思います!
”気の陰陽のバランス”という概念も非常に興味深いです。
僕自身、陰陽については無の境地(あらゆる行動の発端が無動機になる状態)を目指すにあたって意識しているのですが、気という概念でそれを捉えたことはありませんでした。
ただ、朧気ながら感じるのは、行動に対し動機がある状態は一方向に自身が固い意識(エネルギー)を発している印象があり、無の境地を保てている際には全方位に柔らかい意識が広がっている感覚は少しあります。
エネルギーが感知できるようになると理解できる事が増えるのかもしれませんね。 再度質問です。
私の両親が毒親だったので愛を知りません。
また、親友だと思っていた友達に裏切られてから愛という感情が一切ありません。なるべく他人に優しくしようと心がけていますが、優しさという
ワケではなく、優しくすることが責任に思えるんです。
うつ病とかでは現在ないのですが、凄く生きづらかったり、他人との繋がりを全く感じません。
メグさんのアドバイスの自己主張もしていますが自分が空っぽというか、みぞおち辺りが重く生きている感覚がない為、自分がわからない状態です。普通に精神科に通っていますが、めぐさんからアドバイス頂けると幸いです。 "あなたには聞いていない"
と思われるかも知れませんが、一応私からもアドバイスさせて頂きます。
恐らく由季さんは過去の出来事から自分に自信が無く、"もっと〇〇が良かったら"や"〇〇であったら"と考えているのでは無いでしょうか。(´;ω;`)
私も似たような性格なので、何かトラブルが起こった時などは頼れる人がおらず辛いです。
みぞおち辺りが重いのは恐らく、そこにある第
三チャクラが閉じているからでは無いでしょうか?(*・〜・*)
第三チャクラが閉じてしまうと、今の自分の生き方に不満を持ったり、何に対してもやる気の無い無気力感が出てきてしまうようです。
"どうせこの世は不幸だらけだ"
と言う様なマイナス思考まで現れるようです。
まず大切なのは自分の感情を溜め込まずに、何処でも良いので吐き出してみて下さい。由季さんの場合は、自分の感情を溜め込む癖がある様です。( ̄ヘ ̄;)
また、第三チャクラを活性化させる為にも火の近くに居ることや、みぞおちに手を当てるなどをしてみても良いと思います。(*^^*)
私から言える事はこの程度ですが、これからはもっと自分を大切にして、生きてみて下さい!(^o^) スレ主さんの掲げる法則については何とも言えませんが、カルマについて漠然と思っていることはあります。やはり人の行為が未来に作用するのは間違いないのではないかと。人の仕草や行為等は儀式だと思うのです。食事や睡眠、入浴、歯磨きに至るまで生活のひとつひとつは小さな儀式を繰り返しているのだと感じています。例えば飯テロというものがありますが、人の行為が他者に影響を与える様に自分の行いが未来に影響するのは当たり前ですよね。やはりカルマを語る上では日頃の行いに立ち返ることとになります。昔の人は偉かった。
余談ですがたまに目が離せないような、オーラと言うものかものすごく惹かれる他人の仕草ってありませんか?特別その人のことを好きだとかいったようなことはなく、なぜだか目が離せない仕草。きっと念力の高い方なのではと睨んでいますが、どうでしょう。 >>122 由季様
引き続きご相談を頂き本当にありがとうございます。
幼少期の辛い経験がありながら、”人に悪い事をしない”だけでもそれは十分に誇れる事だと思います。
それは平和で愛のある幼少期を過ごした人が当たり前に人に優しくする事よりも、大きな精神の力を要することです。
《自己主張できる人間になりたい》といった願いは続けていくと、それは力を持ち始め、ご自身の外側から人生に作用してくると思いますので、引き続きやる事が大切だと思います。
それで、やった方が良いことは沢山あるのですが、それをご自身で見出すための判断基準があると良いのだと思いました。
現在の心境を生じさせているのは、過去の記憶や行為により生じた自我です。
基本的には『現在の自我(自分)ではあまりやりたくないけど、何となくやった方が良いと思っている事をやる』というのが大切になると思います。
それが散歩などの運動や娯楽であれ、何らかの立ち振る舞いであれ、現在の自我を超えることが大切になるでしょう。
また、”現在の自我が生じた原因となった人物に対する想い”はご自身の未来とも直結する面があると思います。
それはご両親だと思うのですが、表面的にでもご両親の幸せを祈る言葉を心の中で唱える事は、ご自身の良い変化に繋がるものだと思います。
これは現在の自我を超えるという意味では、かなり大きな行動でして、もしそれができるなら大きく前進できるのは間違いありません。
しかし、できない場合でも、問題があるわけではなく、上記にあるような自我を超えるような行動を少しずつでも出来てくれば、現在の自我が薄れ、その自我に付随した辛い気持ちも薄れていくことになります。
掃除などが億劫だと思ったら、それをやるなど、身近にできる事から少しずつ取り組むことが良いと思います。
些細な事なのですが、1年間だけでも確実な変化に繋がり、3年経てば過去から解放され、10年経てば全てを最善と思える超越的な境地にいたる事ができるような道のりです。 >>84
現世では見返りを期待できなくても死後や来世では期待してるんだからお前は綺麗事をほざいてるだけだろ 横からスマソが見返りがあったにせよ必ずしも現世的な利益に繋がるものとは限らないと思うぞ?
たとえば、君らが全ての財産を投げうって困っている人たちに尽くしたとしよう
そして返ってきたのは金銭的見返りでも社会的な成功でもなく子どもたちの笑顔だけだった
卑近な例を挙げれば、伊達直人運動のような身元を明かさないボランティアでは
こういうことは十分あり得る話だろう
要は、それが物質的欲求を満たす結果に繋がらなくて残念がる人もいれば
子どもたちの幸せを感じられることそれ自体に黄金の価値があるという人もいるわけだろ
だいたい、神の視点で考えればお金や成功なんて善でも真の幸福でもなんでも
無いんじゃないの?
むしろ生きる為に必要以上のことを求める物質的な成功など悪徳だろう。 臭い偽善じみた綺麗事を吐いているがそれが対価と代償を暗に要求しているだけだってわかんねえのかな >>128
精神的にせよ物質的にせよ“良きこと“の見返りを期待するのは当然だと思います。
仮に寄付をすれば地獄に行くと分かっていたら普通なら誰もしないでしょうし、
悟りを得た賢者にしか純粋で下心無しの善行は無理なんじゃないでしょうか。 真の善行・絶対的な善なぞ証明できないし人間なんて所詮その程度だと思った方が良い
本音では対価等を求めているだけと思っていた方が自分が「正しい」と思い込まなくて済むからな
ついでにメグの言っている事も現実に証明できない以上気休めだと思って話半分で聞いてた方が良い 「何億年」とか軽々しく出してバカじゃないかと思ったわ [5億年ボタン]みたいに適当な事ほざいてんだから
885名無しヒーリング2021/04/23(金) 15:01:06.56ID:DE23UYh1
>>881
>879様もご自身のスピリチュアルの定義で全ての人の見識が統一された方が良いという観方はされておられないのだと思います。
進化は人の数だけあると思います。
別に宗教的な行法をしなくても、音楽家であれ、主婦であれ、トラックの運転手や職人さんであれ、カルマヨガを通して進化する方法はありますよ、気の遠くなるほどの転生を繰り返し人間として初めて悟りを開いたといわれる釈迦も最後は「難行苦行は修行にあらず」と申しておりますね
だからこの世でいう悪人であれ、それはそれでその人の進化の途中なので、いつかは必ず人は悟るのだと思います。地上の時間で何億年かかるかわかりませんがね(笑) >>114
>>112は別人による妨害ですよ。
呪術が事実であれば、客からカネをとることなく別の方法によってカネを生み出します。
密教にはそのような方法があります。
ゆえに、商取引として呪術を行う輩などおりません。論理破綻ですからね。
ちょっと脱線しますが、殺し屋に殺害を依頼した人がその対価を前払いするときに
その殺し屋に殺されてカネを奪われたという笑えない話があります。
呪術師とやらが依頼人からカネをとるのはこの話が参考になるでしょう。
また、商取引でもカルマの法則は働くはずです。人間の行為すべてに働くもののはず。
密教の行者が呪殺を引き受けるときは依頼者に同情するからだそうです。
行者は加持祈祷中に絶命することがあるそうです。しかも一日24時間体制でそれを行う。
そして呪殺が成功した暁には行者もまたその反動(カルマ)があるそうです。
そこで絶命する行者もおるそうです。
ゆえにカネ儲けのために自身の命を犠牲にするのは矛盾するのです。
これによって呪い代行業者なるものが如何にペテンかわかるでしょう。 >>132
仮にも仏の道を進む人が呪殺など引き受けるのでしょうか
それが本当なら密教って恐ろしくないですか >>133
密教にはあります。
大陸由来の呪術が平安時代に空海と最澄によって日本列島に導入されたものです。 死後・来世に対して見返りを期待する以上、それは偽善ではないか?というテーマで少し議論が活発化していますね。
とても興味深い議論になって嬉しいです。
それで、この議論に際して、僕にとって興味深いのは
【なぜ、見返りを求めてはいけないという”発想”がそもそも大多数の人に存在するのか?】
という点です。
「見返りを期待することは偽善」という言葉を口にする人もいる事から分かるように、そこには、見返りを求めないことを真の善として認識している感覚が根付いているように思えます。
これはテレビなどの外部情報によって刷り込まれたものか、親などとのコミュニケーションによって身に着いたものか、それとも、人間の精神にはそもそも”善の判定基準”が備わっているのか?
このあたりはとても関心のある所です。
仮にテレビなどの外部情報によって刷り込まれただけの感覚であれば、善行に対し見返りを求めてはいけないという概念はテレビ由来のものであり、さほど重視する意味は感じません。
ただ、善の判定基準がそもそも精神に存在し”見返りを求めてはいけない”という感覚が、真の善の存在(その善を探究することで、真に良い道に進める可能性の存在)に由来する可能性があるならば、かなり考慮する必要があるように思います。 見返りを求めることは取引をしていることと同じです。
カルマの法則は「取引」ではないと思います。
他者を傷つけた者はいずれ自分も同等の経験をするのがカルマの法則でしょう。
ここにどのような見返りを見出すというのでしょうか。 どのような見返りを見いだせるかといいましたら、相手を傷つけたカルマが浄化される見返りでしょうか >>135
見返りを求めずに行うことは大きな勇気や決心や覚悟が必要なことが多いので、その結果より大きな成長ができるため、その点で有効なのではないでしょうか
だから、カルマの法則を知っていてそれを活用しようと見返りを求める場合、見返りは求めずに行うこともテクニックかも?!
そもそもカルマの法則を活用しないでも成長できる次元があるかもしれないです >>136様
ご意見を頂きありがとうございます!
取引と見返りを関連づけた考え方、掘り下げる価値の大きいものだと思います。
長くなりましたので、2つに分けて投稿します。
(結論にいたる思考過程まで明らかにしようとすると、どうしても長くなってしまい申し訳ございません。
これを省くと、途中の因果関係が抜けた結論のみに読む人の思考が縛られ不自由になる恐れがありますので、極力、思考過程は明らかにするようにしています)
136様も”見返りを求める事は取引をしていることと同じ”と表現されている通り、取引と見返りには違う側面があるように思います。
まずはこれを明確に線引きしてみたいと思いました。
僕なりに取引を定義してみると『自身の求める対象を得るために、自身が持つ物と相手が持つ自身の欲しい対象を交換する行為となりました。
また、取引の場合、相手が自身の欲しい物を持っていることをある程度、認識して行うという状態だと思います。 見返りを定義してみると『何らかの行為により、自身の求める対象に”近い物”が得られること』となりました。
ただ、見返りの場合ですと、欲しい物を指定する・指定しない、また、欲しい対象が得られることを確約してもらう・しないという両方の場合まで含めて指した言葉であり、見返りという言葉を使う人は、このような曖昧な部分まで含めてその言葉を使っているのだと思います。
この点を考えると、カルマの法則に対して取引を持ち掛けたような状態(それが得られるかは別にして)は、「〇〇をしたのだから、欲しい〇〇が返ってくるはず」と、それが確約されたものであるかのような心境なのだと思います。
次に、カルマの法則に対して見返りを期待する状態は「〇〇をしたのだから、欲しい〇〇・あるいはそれに近い物が手に入るかな・入らないかな」という”揺らぎの状態”が多いものと思います。
カルマの法則は不明点が多い性質上、必然的に、後者の見返りのような”揺らぎ”のある心境の人が多いのだと思います。
このような”得られるかどうか分からない”といった状態は、日常生活においても”今やった事が正しいかどうか分からない”といった形で良く観られるため、見返りを期待しようとしまいが、その状態はあまり変わらないのではと感じています。
また、誰もがするように、仕事における努力で成果を期待するなどの部分が、他者への善行の成果が人生により何らかの形で得られることにフォーカスが移っただけであるため、この両者にそこまで大きな差は見受けられないと考えています。
ただ、カルマの法則に対して取引を持ち掛けたような心境「〇〇をしたのだから、この〇〇が得られる」というのは、当てが外れる可能性が極めて高いことが僕の経験上では明らかでした。
ですので、136様が仰る通り、取引相手としてはカルマの法則は不適切だと僕も感じています。 >>138様
ご意見を頂きありがとうございます!
実は、僕自身も138様のご意見と近い認識を持っています。
物的見返りが無い状態で何かに誰かのために行動を起こすには決心や覚悟を要し、また保身の気持ちが減る事により、原理は正確に把握できていないものの顕在意識・潜在意識の両方の認識範囲が向上(成長)しやすいと”経験上”考えています。
ただ、カルマの法則とは別の部分で成長に繋がる道筋がある場合、それも明らかに出来たらいいなと思っています。
僕個人としては、それは存在するのではと信じています。 >>139-140
メグさんのお考えを拝読しますと、それは「カルマの法則」ではないと思います。
さまざまなカルマが時々刻々と発生するなかで、ご自身の心境ひとつで
何かが狙った通りに発生するわけでもないですし、意図した結果を創り出せるわけでもない。
カルマの法則(プラスの面で)を日本のことわざに置き換えるならば、「情けは人の為ならず」です。
他者に掛けた情けが巡りめぐって自分にかえってくるということであり、いつそれがかえってくるかは
わかりません。ですから取引はもちろん、望んだ結果がもたらされることも不確定です。 貴重なご意見を頂き本当にありがとうございます。
僕自身、僕の知らない法則を知りたい気持ちが強く、このようなご意見をとても嬉しく思います。
僕の場合も『特定の〇〇が欲しいので、人に〇〇を与える』といった形での意図した結果は引き起こせないという観点は142様と共通だと思います。
ただ、普遍性の高い概念(より広い範囲に通用する概念)に対しては、それが得られやすい傾向があるなと考えています。
例えば、”よりお金が欲しいので人に対して無償でお金を与える”といった寄付の場合ですと、より多くのお金は得られにくいです。
しかし、お金よりも高い概念である、地道にお金を稼ぐことを苦にしない心、お金に執着しない心といった、お金を超えた概念など、結果的にお金を得ることにも繋がる普遍性の高い概念が身に付きやすいなど、【与えた物の種類に応じた普遍性の高い概念】が身に着く作用はあるように感じています。
とはいえ、これは僕の経験則ですので、これが真実かどうかは僕では無く世界が明らかにするのだと思います。
それで、142様の思想をより深く理解するにあたって一つ質問をさせて頂いて宜しいでしょうか?
142様は『カルマ』に対して、どのような定義をされているのでしょうか?
僕の場合ですと、”行為の結果により自我が形成され、その自我が解消され、より大きな自我を得るための出来事が引き起こされる過程”とひとまず定義づけています。
(実際は、この定義よりカルマは遥かに壮大な意味を持つと思っていますが、こうしたやり取りの中でその定義をより正確にしていきたいと思っています)
まずはお互いのカルマの定義を明らかにした上で議論が出来れば、お互いの知らない真相に辿り着けるのではないかと思っています。 >>144様
保守頂けてとても光栄です!
個人的には、このスレを通じ、思想の多様性により多くの真相を明らかにできたらいいなと思っています。
匿名掲示板って面白いですね。 >>143
カルマとは思考や行動全般による因縁のことです。
「自我」云々は関係ないと思います。
難しい話ではなく、因果応報だということ。ただそれだけです。 >>146,142様
素晴らしいご意見をお聞かせ頂きありがとうございます。
貴重なお時間を割いて返信頂き、感謝いたします。
とても参考になります!
【思考や行動全般による因縁】の”因縁”という言葉の中身が少々曖昧になりやすいので、より深く理解したいのでもう一つご質問させて頂いて宜しいでしょうか?
(もちろん、差支えが無ければで結構です)
因縁とは”一つの事象が次の事象を引き起こす過程”のことを指しているのでしょうか?
例えば、AさんがBさんを殴ったら、殴られた記憶・痛みなどがBさんに生じ、その生じた要素をきっかけに、Bさんの精神傾向に基づく反応をAさんに返すといったような形です。
この場合ですと、AさんのBさんへの行為による反応がAさんに返ってきている形になるのですが、こうした事を因果応報と定義づけておられるという理解で宜しいでしょうか? >>147
掘り下げる必要はないと思います。
カルマの法則とは「因果応報」のことです。
善因善果、悪因悪果です。
カルマの法則は個人だけでなく、社会集団である民族や国民、
あるいは国家という単位でも発動するといいます。
ですから自我云々は不要な議論です。 >>148,142様
ご回答を頂き本当にありがとうございます!
掘り下げる必要は無いというお言葉、とても興味深いです。
物事に対して自我意識による理解を最小限にするのは、関心のあるテーマでしたので尚更です。
142様の”掘り下げる必要は無い”というお言葉は、人知を超えた神の御業を知識化する事で、却って見識が制限されるので、事象を取り巻く原理などについては掘り下げずに曖昧なまま認識した方が良いという事でしょうか?
ちなみに、僕の考えですと、自我に関しては、事象に対して精神傾向に応じた反応を返す性質が人間にあるので、精神傾向(自我)はカルマの法則を究明する上で必須なテーマだと思っていました。
自我という部分が抜けてしまうと、カルマの法則における進歩という概念までもが消失するように感じています。
ただ、142様は善因善果、悪因悪果というお言葉を使っておられるので、物事の良し悪しの基準が存在すると考えておられるのだと思います。
物事の良し悪しを自我や自我の成長(自身の成長)を基準にするのでない場合、自我ではない別の所に、物事の良し悪しの基準を求めておられるという事でしょうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています