西表炭坑
西表島はもともと人口が少なかったため炭坑労働者の多くは島外から集められた。
募集人の口上に乗せられて日本各地や台湾、中国などから実情を知らされないまま島にやってきた人々は、まず島までの運賃や斡旋料などの借金を負わされ、
いわゆるタコ部屋労働を強いられることになる。
炭坑で働くことによって借金を返済することになるが、給料は納屋頭と呼ばれる個々の炭坑責任者が管理しており、
実際にはほとんど支払われることがなかったといわれる。
給料の代わりに炭坑切符と呼ばれる私製貨幣が支給され、会社経営の売店で食料や日用品と交換することができた。
炭坑切符はある程度集めれば通貨と交換できるとされていたが、実際には交換されないばかりか責任者が交代すると紙切れ同然となった。
すなわち一度炭坑にやってくると二度と帰れないというのが実情であった
炭坑での労働は過酷なものであった。炭層が薄いため坑道が狭く地面を這うようにして作業しなければならなかった。
しばしば落盤事故が発生し年間1-2名が死亡した。衛生状態が悪く寄生虫やマラリアが蔓延していた。
多くの労働者は博打に興じ、治安も悪く暴力沙汰は日常茶飯事であった。
島外へ逃亡するにも会社の連絡船しか交通手段が無く、
運良く近隣の島まで逃げられたとしてもすぐ炭坑関係者に捕らえられ引き戻されるだけであった。