「こうです。言葉のニュアンスをくみ取ってみて下さい。」Yongey Mingyur Rinpocheさん曰く

「川を眺められるというのは川の外に居ることを意味する。」川に落ちて流されたら、川を眺められない。
なので、川を眺められるのならば川の外にいることを意味する。どうです?分かりますか?
だから、同時に、川の流れを止める必要など無いし、当たり前に川を塞き止める必要もないのです。」

「同様に、人の心の中にも思考と感情が流れています。川の流れのように浮かんでは消え、 浮かんでは消える。
だから、思考と感情を観ているならば、それが「気づき」となるのです。だから、この気づきが、瞑想の真髄となる訳です。
もし、多くの思考と感情が心に湧いてこなかったらなら、心が静かで落ち着いていて静かで落ち着いていると観ているなら
それも瞑想なのですよ。」

「でも、心がリラックスしているのにも関わらず、それに気づいていなかったり、ぼんやりして、あまり考えていなかったり、
自分がどこにいるのか判らないような完全に気が散っている状態は瞑想では無いのです。
言い換えれば、瞑想の重要な側面は、気づきです。気づきのあること。
言ってみれば「瞑想の見解と動機が 瞑想の質を左右する。」です。
だから、もし気づきについて判らないのなら、気づきを認識しようという動機がないのであれば、
たとえ心が落ち着いているように見えても、それは本当の瞑想では無いと言えますね。」

「これら思考と感情は、雲や嵐や虹のように、浮かんでは、留まり、消えていく。
空間から生じ、空間に留まり、空間に消えていく。空間を変えるものではないです。それは不可能である。
台風や竜巻でさえも空間を変えることができません。空間は移り変わらない。同様に、気づきも移り変わらない。」

「そもそもですが、気づきを知らないと言うか出来ていない。これが問題なんだよね。
瞑想の真髄ってのは「 気が散らない状態」のことです。
気が散らないとは、どんな意味なの?それは「気づきの存在、気づきを認識すること」です。
だから気づきに意識を向けるのです。たったそれだけの事です。これが瞑想ですと言っても会得するしかないのですが(笑)」