三位一体に関しては知識および学びでは得られない真理なのである。
内村鑑三は理知的にわかりやすく敷衍したが、それでも晦渋だった。
彼は愛についてメタファを用いた。たとえば神がまず最初に完全なる独りであれば
いわゆる「愛」という概念は生み出されるだろうか? 否、生み出すべき必要があるだろうか?
他者が存在して初めて「愛」というものは存在し得るのである。


父と子と聖霊は同位でありペルソナ等さまざまな言い方があるが、しかし神は聖書を通して極めて
確実に三位一体を伝えておられる。しかしこれは学んで得る知識および知性ではいかんともしがたい。
やはり土に水が染み込むように、時間をかけて体得するものである。信仰とはそういうものであり、
時というものが明確に関わる。(神のなさることはすべて時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を与えられた。伝道者の書3.11)

このように、信仰とは聖霊の降誕、すなわち砕かれ自身の無力を知り自身のために罪なき神が自らしんがりとなって
最も卑しい形をとって自身の穢れた罪を自ら負って十字架に赴き苦しみ命をさしだしてくださった、
その意味を体得し洗い清められた折、はじめて真理を心づくように定められている、要するに畢竟、聖霊の助けなしには
理解できないものである。

人によっては7歳で真理を得る者もいれば80歳で真理にたどりつく者もいる。いずれにせよ、狭き門であり、
愛と赦し、平和と謙虚、新生体験、行ないではなく恵み、自身がこれを成したという生産性における傲慢ではなく救済、
そして森羅万象どこを見ても明らかに神の存在を見出せる自然界・生物・宇宙・精緻な数字における奇跡に気づいた際に、
人は地境が拡げられる。