仙道ゲームにはそれ独自のルールや概念が存在する。
ヨーガゲームやチベット仏教ゲームもまたしかりだ。
で、それらのうちのどれが正しいとか間違っている、ということは「ない」。
言ってみれば、どれも正しいし、どれも間違っている。
というのも、それらの概念やルールは「設定されたもの」に過ぎないからだ。
このことは過去にも何度も指摘してきたこと。

で、現代においては古今東西の様々な宗教やそこから派生した概念、ルール等が
ごった煮になりつつある、そのプロセスの途上にあると言える。
先に話題になっていた、松村潔氏の『分身トゥルパをつくって次元を超える』
という本で語られていることも、チベット仏教特有の概念であるところの、
トゥルパの形成を、こともあろうに西洋神秘主義のツールのひとつである、
タロットの大アルカナ22枚を駆使して成し遂げようという試みである。

もはや、これは仙道だ、これは仙道ではない、と線引きすることは不可能となっている。
要は、それに取り組む当事者が、それらの概念やルール、ツール等に対して、
どれほどの「臨場感をもって」使いこなせるかどうかにかかっている。

何かと物議を醸すことの多い苫米地氏の「内部表現書き換え論」の白眉たるの所以は、
概念やルール、ツールの相違を、情報空間における情報の違いに過ぎないと看破し、
物理空間(ここにはチャクラやクンダリニー、先天の氣といったものも含まれる)において
我々がリアルに目撃しているものは、それらの一対一の写像に他ならないとした点だ。
すなわち、何に対して臨場感を抱くかは、その人固有の情報空間の違いに由来する、
ということなのであり、情報空間の書き換えという「設定変更」により、
それは如何様にでも変えられる、ということだ。

したがって、俺様は正しくてお前は間違っている、
などと主張する人間がいたならば、そう発言しているその人物こそが間違っている、
あるいは、少なくとも世界の仕組みについて自分は何も知らない、ということを
自ら宣言しているに等しいのである。