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>452
>『船木弟虫』;伊勢ノ船来直(船木直。
>船木−伊勢国朝明郡舟木明神祠官。西脇−同郡耳
この伊勢ノ船来直(船木直は、
『古事記』の神武段に同一と思われる名が見えます。
「意冨臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、 筑紫三家連、雀部臣、雀部造。
小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥石城国造 、常道仲国造、長狭国造、
伊勢舩木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等」
(『古事記』神武段より)
同じ段に記されている氏族から、こちらの系統と思われます。
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/11/IMG_2894-0.png >>452
>伊勢国朝明郡舟木明神祠官
伊勢国朝明郡は現在の三重県四日市の一部とその周辺を含む地域を指す。
http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081112-01.html
耳常神社
舟木直の祀る耳常神社は、舟木明神または春日明神と呼ばれていた。 >>461
訂正
> 中村谷七城と呼ばれる 7 つのの 1 つには
○7 つの城の 1 つには
朝明郡の舟木氏については後述します。
それまてペンディングとします。 >>461 ではなくて >>460 でした。
○中村谷七城と呼ばれる 7 つの城の 1 つには
だから、8 〜 9 世紀の東大寺文書に「中村」とあるのに、
14 世紀以降に仕えた北畠氏から中村谷を賜ったので中村を名乗ったというのはおかしいでしょう。 >>467
美濃の明智氏とのこの奇妙な符合からしても、
一志郡土着の舟木氏が自ら系図を書き換えたとは、
わたしには思えない。
伊勢国渡会郡山田住人なるもの(>>468)とは何者なのか。
ちなみに、神官家の祖神である天日鷲命の妻、弥豆佐佐良比売命(みずささらひめ)は、
この山田村の村長の娘であったとされている。 http://www.amigo2.ne.jp/~fuchisai/home/denki.htm
これは北畠氏列伝。
正平八年(1353 年)、土岐一族の舟木頼夏の子、頼尚が伊勢入りするところから始まる。
http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373267188.html
こちらの舟木系図では、
文和元年/正平7年(1352 年)、頼夏・別腹の子兵庫助頼尚を美濃國土岐に移して一族土岐家に属させる。
とある。 もし仮に、
一志郡に土着していた舟木氏が、
美濃の清和源氏土岐一族の舟木氏と途中で入れ替わってしまったのだとしたら、
舟木氏と一緒にいる出口氏も美濃から来た一党だと考えられます。 http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373267188.html
>貞治二年(1363 年)、城を一志郡堀の内に構えて之に移る。
これによれば、
多藝郡三瀬谷から堀之内城へ移ったのは頼尚と子の正尚の時代。
その後裔、中村仁右衛門光長が△△城主となる。 多藝郡三瀬谷から一志郡堀之内城へ移ったのは、
舟木頼尚とその子、正尚の時代。
その後裔、中村仁右衛門光長が△△城主となる。
△△城
城主、中村仁右衛門尉光長(舟木光春の弟)がこの城を築いたのは、
天正年間(1573 〜 1592 年)のこととされる。 しかるに、この△△城、
出口氏が明治初期までその跡地に住んでいた城ですが、
遅くとも 7 世紀には同じ場所に存在していたと考えられます。
このことは、城跡地の四辺を囲む道の形からわかります。 こっちに来たい地球防衛軍の方々は受け入れます。会社が1億位資金不足になってますので助けてくれ。 △△城は周囲を囲む四辺のうち、
北辺と東辺が旧伊勢街道に接道しています。 旧伊勢街道のこの部分を、
曲尺定規のように直角に折れ曲がっていると表現している人がいますが、
これは△△城があったためです。 旧伊勢街道は別名参宮街道といい、
斎宮、そして伊勢神宮へつながっています。 斎宮や伊勢神宮へつながる道が、
△△城を迂回して折れ曲がっているということは、
遅くとも伊勢神宮が創建され、斎宮制度が成立した時点で、
この城がすでに存在していたことを意味します。 今の旧伊勢街道は、蒲生氏郷が松坂へ入ったとき整備されたもので、
古代には使われていなかったとされています。
これは確かにそのとおりなのですが、
この古代というのは平安時代末期の 11 〜 12 世紀以降のことです。
それまで、つまり、伊勢神宮が創建され斎宮が成立したと考えられる飛鳥時代から平安時代までは、
この旧伊勢街道が神宮への道として使われていました。 実際、斎宮歴史博物館の資料(ジオラマを含む)でも、
この旧伊勢街道が正式な斎宮群行路であったことが明確にされています。 初代の斎王は垂仁天皇の皇女、倭姫命とされています。
ですので、伊勢神宮の公式見解を採用するならば、
垂仁天皇が在位した紀元前に、
△△城はすでにこの場所に存在していたことになる。 倭姫命が△△城の北門の前の道を曲がり、
東門の横の道を通って伊勢へと向かったことは史実なのです。 城の敷地が確保されていただけなら、
道路を敷設するとき、真っ直ぐ延ばすこともできたでしょう。
迂回しなくてはならなかったのは、
このときすでに建物が建っていたからです。 天皇や斎王の乗る御輿には、
葱(ねぎ)の花のような形の飾りが付いていたため、
葱華輦(そうかれん)と呼ばれた。
歴代の斎王は、この葱華輦に乗って斎宮へと赴いたのです。 さらに言えば、
この旧伊勢街道の敷設自体に、
当家が関与していた蓋然性も高い。
南伊勢側がこの街道を敷設するとき、
△△城が延長線上あったために迂回したのではなく、
この街道自体、当家が敷設したものであり、
最初から城の敷地の北辺と東辺がそのまま街道になるように形づくって、
南北に延ばしたとも考えられるからです。 街道沿いの広範囲にわたる土地を
当家が戦前まで所有していたことが、その論拠となります。 城の南門より 200 〜 300 メートルほど行くと、
フル川水神があります。
お宮などはなく、
石が置かれているだけの、きわめて原初的な遥拝施設です。 >>498
> △△城が延長線上あったために迂回したのではなく、
↓
○延長線上にあったために迂回したのではなく
>>500
> 城の南門より 200 〜 300 メートルほど行くと、
↓
旧伊勢街道を城の南辺より 200 〜 300 メートルほど南下すると △△城の地形と旧伊勢街道の形は、
いつでも地図で検証できます。
旧伊勢街道が参宮街道として使われてきた史実がある以上、
同街道の成立と同時期またはそれ以前から、
何らかの建物がこの場所に建っていた蓋然性を否定することは不可能です。 何となれば、
当家の祖神は、道引きの神だからです。 「初代斎王」倭姫命(やまとひめのみこと)の父である垂仁(すいにん)天皇は、
『古事記』では伊○○伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)と称される。
『常陸国風土記』では単に伊○○天皇となっている。
△△城の△△ = ○○ 垂仁天皇の陵とされる
菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)の遺跡名は宝来山古墳。
関係ないかもしれませんが、紀州の宝来山神社の祭神には、
猿田彦大神、菅原大神が含まれています。 伊○○は活目とも書く。
まぁ、目が大きくてパッチリしてたんでしょう。 907. 本当にあった怖い名無し 2018/05/29(火) 12:37:54.16 ID:8VppFDUX0
天智天皇って怖い人ですのよ。
皇后、倭姫王(やまとひめのおおきみ)の父君である、
古人大兄皇子(フルひとおおえのおうじ)を謀略にかけて殺害してしまいますの。
ただし、
やまとひめの父親、古人大兄皇子(フルひとおおえのおうじ)は、
殺されることなく長野の皆神山へ逃げのびたという説もありますのね。
皆神山にある皆神神社(熊野出速雄神社:くまのいずはやおじんじゃ)には、
脇座として、この古人大兄皇子(フルひとおおえのおうじ)が祀られていますのよ。 >長野の出速雄神社には、
>やまとひめの父、フルひとおおえのおうじが祀られていますのよ。
小丸山古墳に葬られているのは、
第三十四代舒明天皇の第三皇子古人大兄皇子、または
出速雄命(いつはやおのみこと)ですのよ。 さて、△△城の南辺はそのまま、
この地域から阿射加方面へ至る真っ直ぐな道となっています。
昔の人はこの東西に延びる長い道のことを縄手(なわて)と呼んでいたそうですので、
ここでも縄手とすることにします。
阿射加山(升形山)の山頂と同緯度(北緯 34 度 35 分)に位置する敏太神社、△△城は、
この縄手の線上に並んでいるわけです。 http://www.yukanmie.com/news/4512/
美濃田町の祭り場 古老ら一念発起「子々孫々に」
松阪市美濃田町の住人らが、同町の伝統神事「すすきたおし」の際に参る獅子塚を、
松阪農業公園ベルファーム(伊勢寺町)の美濃田町部分にある
東側駐車場の一角に新しく造り直した。
公園開園に伴う2001(平成13)年の駐車場整備で昔の獅子塚が
無くなっていたため、18日午前10時から完成神事を行った。
世話人の一人の阿坂郷土史歴史研究会顧問・同町の山本実穂さん(84)によると、
すすきたおしは、五穀豊穣(ほうじょう)や無病息災を祈願する祭りで毎年2月の第3日曜日に行うが、
いつ始まったかは分からない。獅子役とてんぐ役、ふご持ち、太鼓打ちの男と同町の敏太神社宮司が獅子塚に参り、
獅子道と呼ばれる順序で集落を回る。 おわかりのように、
三天王社を祀る敏太神社は松阪市美濃田町にあります。 >>510
敏太神社の三天王社には、
石神天王 上出口天王 八田天王の三天王が祀られる。
このうち上出口天王について当初、
阿射加山(升形山)のふもと地域に残る字名の「出口」との関連を考えていました。 しかるに、
上出口という姓について調べると、
この性は鹿児島県出水市にしか存在しないことがわかりました。 ですので、
敏太神社のこの三天王社に祀られる上出口天王は、
阿射加山(升形山)のふもと地域に残る字名の出口とは關係ないということになります。 >>436
>O (70)目に相当する
>ヘブライ語アレフベート 16 番目の文字 Ayin は
>目を表すと同時に fountain という意味もある。
>fountain は泉、出水、水源、源。
出水は目と同義だということを言っています。 >>514
【訂正】、
> この性は鹿児島県出水市にしか存在しない
○この姓は鹿児島県出水市にしか存在しない >>510
下の URL のページを見ると、
この三天王社について記載のある『美濃田神社旧記』は、
享保九年(1724 年)、藤原藤太夫という人によって記述されたとあります。
上出口と出口は別の名字です。
似ていても関係ありません。 また、敏太(みぬた)と美濃田も別の名称です。
神社付近に字名として今も残る「出口」と、
遠く離れた鹿児島県出水市の氏族に関連すると思われる「上出口」、
神社の名称も敏太(みぬた)→ 美濃田になっている。
おそらく、この付近の地名も美濃田ではなく敏太(みぬた)だったのではないでしょうか。 >>511
獅子塚と呼ばれる「塚」が、
敏太神社の付近にあったのです。 舟木氏が天手力男を祀った竹ごおりの佐那神社と、
いしごおりの敏太神社は、社紋が同じ左三巴ということです。 紋と言えば、
阿射加神社の社紋は神官の菅原氏の紋、
五瓜に梅花となっている。
△△城の出口氏の家紋も同じ。
(参考 >>505)
まぁ、紋なんて、時代がかなり下ってからのものでしょうけど、
何らかの関係はあるかもしれない。 それで、
△△城の出口氏。
元々△△城にいた出口氏は古代からの土着の氏族ですが、
平成までほぼ同じ場所(近所に引っ越してます)に住んでいた出口氏は、
果たして元々この地にいた出口氏と同じ氏族なのか、という疑惑が生じるわけです。 もしかしたら美濃から来た別の人たちが、
古代からこの地にいた△△城の出口氏を消して、
入れ替わっちゃってるかもしれないから。 有名な北緯 34 度 32 分のレイラインよりも、
北緯 34 度 35 分のほうが古いのですよ。
話がやばいところまで来てるから、悪霊が総力を結集してるのよ。 ジョセフィーヌさんを讃えるため、ジョセフィーヌさんをモデルにした映像作品を作りました。
ジョセフィーヌさんの本名は〇〇子なんですよね?
なので、作品の主人公の名前も〇〇子にしました。
見てください。
http://www.nic ovideo.jp/watch/so28594439 >>459 のフォーラムを見る限りでは、
舟木氏の子孫の方は >>441-443 の系図を
全面的に信用して採用しておられるようです。
舟木氏のアイデンティティがこの美濃の系図に基づくものである以上、
出口家の先祖も美濃の一党と入れ替わってしまった蓋然性を疑うのは自然なことだと思います。 16 世紀末に城主として△△城を築き、
廃城後も付近に居住していた○村氏と舟木氏が、
美濃から来た清和源氏流土岐一族であるならば、
△△城に明治維新後まで居住していた出口氏も、
その一党であると推論するのが自然だからです。 △△城のあった集落の墓所は近くの浄土宗の寺にある。
武家は禅宗の寺に墓所を持つ場合が多いですが、
この集落では士族も農家も皆、この浄土宗の寺の檀家になっている。
舟木氏と出口氏の墓は、武家の様式に則った大きな墓です。 集落の墓がある寺は、
秀吉が天下統一した 16 世紀末にできたものらしく、
寺の過去帳もそれ以前のものはない。
この時期に△△城が廃城になり、
船木氏と出口氏をはじめとする集落の各氏に何かあったのでしょう。 前にも書きましたが、
城の跡地以外の土地についても、
舟木氏、○村氏、○田氏 3 氏の所有地を合わせた総面積が、
出口氏一家の所有地の総面積に及ばなかった。
(そんなことどうでもいいのですが、一応史料として)。
この事実をからすれば、
出口氏が舟木氏に従って美濃からやって来た郎党の 1 人に過ぎないとするのは無理があるのではないか。
仮に郎党の 1 人が当地で出口氏を名乗ったとしても、
主君の舟木一族よりも広い土地を所有して城に住むというのは不自然だからです。 舟木氏一族よりも広い土地を所有する出口氏という存在が、
14 世紀以前からこの村落にあったとすると、
よその土地から来た人たちが船木氏と出口氏のその関係を踏襲することはないのではないか。
今いる出口氏が美濃から来た船木氏の 1 郎党に過ぎないのであれば、
△△城の廃城後も郎党の 1 人に過ぎない振る舞いをするのではないだろうか。 船木氏と出口氏のこのオリジナルと思われる関係性を見ると、
舟木氏一族も、よそから来た人たちと入れ替わったということはないと思います。
古くからこの地にいた舟木氏が何らかの事情で名乗り替えたか、系図の書き替えを強いられたかして、
子孫の方たちはその系図をそのまま信じておられるのだと思いたい。 あとは土地への執着かな。
出口氏には在地の土地への執着、というか愛着がある。
刀を置いて本陣の道を選んだのも、
自ら開拓した土地やその民への愛着ゆえだったように思う。
元々の在地領主ではなく他の土地から来た者であれば、
刀を置かなかったのではないか。 それから、
石屋、棒屋、大工、鍛冶屋を城の跡地に住まわせたという事実もあります。
うちが飼ってた、
もとい、当家と交流のあったこれらの職能者たちは、
美濃から来た人たちではなく、
出雲から一緒にやって来た仲間のような気がして仕方がない。
ちなみに、松阪市には棒屋神社という神社があって、
祭神は五十猛です。 うちが飼ってた、
もとい、当家と交流のあったこれらの石屋、棒屋、大工、鍛冶屋さんたちが
古くからこの場所にいた人たちなら、
昔から出口氏を知っているわけですから、
途中で入れ代わってしまったらわかりますよね。 753YHVH@無断転載は禁止2017/08/14(月) 20:43:05.16ID:zPWxrIxr0
本当の出雲族は石ごおりと竹ごおりにいる。
>>540
五十猛(いそたける)は、
石(いそ)と竹(たけ)だから。 北緯 34 度 32 分のレイラインの西端とされる淡路島には、
舟木石上神社(舟木石神座)と伊勢久留麻神社がある。
石上神社(舟木石上神社)は、
磐座(いわくら)の集合自体が神社と呼ばれているもので、
創建年代は(ネット上では)わからない。 一方の伊勢久留麻神社は、
敏達天皇(527 〜 585)の時代に
伊勢国庵芸郡久留真神社より勧請されたとあるので、
おそらく 6 世紀頃のものでしょう。
伊勢国庵芸郡は現在の三重県鈴鹿市、津市、亀山市の辺りです。 北緯 34 度 32 分のレイラインの東端に位置する斎宮よりも
△△城のほうが古くから存在することについては前述しました。 この斎宮について、
△△城が阿坂山(桝形山)の山頂と同緯度に位置するのと同様、
斎宮は現松阪市伊勢寺町にある堀坂山(ほっさかさん)という山の頂上と同緯度にあります。 つまり、
明和町の斎宮から淡路島の石上神社までを結ぶ北緯 34 度 32 分のレイラインと、
△△城から奈良天理市の石上神宮までの北緯 34 度 35 分のラインはいずれも、
現松阪市内にある堀坂山と阿坂山という 2 つの山の頂をそれぞれ基準としている。
メジャーな北緯 34 度 32 分のレイライン上に並ぶ各遺跡の年代順の時系列については推測するしかありませんが、
まず堀坂山に合わせて斎宮を造営し、次に大和の箸墓古墳、淡路島の神社をつくっていったと個人的には考える。
斎宮は初期の伊勢神宮の内宮であったという前提も付け加えておきます。 初代斎王とされる倭姫命の父、
崇仁天皇の在位時期は紀元前後。
伊勢久留麻神社はそれよりもずっと時代が下った
敏達天皇の世の創建とされているので、
阿坂山と△△城を結ぶラインはこれらよりも古いことになります。
ちなみに、奈良の石上神宮は紀元前 82 年の創建だそうです。 http://www.sengyomura.jp/app/Blogarticlelist
>猿田彦 ものごとの最初に御出現になり
万事最も善い方へ“おみちび き”になる大神
伊勢神宮の位置を決めた上空う2万メートルから見ることが出来たエイリアン<
この人はなぜこんなことを知っているのか? 旧伊勢街道というのは斎宮へ至るための道なのですよ。
で、現明和町にある斎宮こそが元々の伊勢神宮。 △△城の跡地は四辺が道路になっている。
二辺が旧伊勢街道になるように
敷地がデザインされているというよりむしろ、
△△城の二辺になるように、
旧伊勢街道がデザインされているように見えるのですが、
どうでしょうか。 道路の造成についても、
竜神としての性格が関与していたでしょう。
道って細長いものでしょう。
竜神が道を引く神となるのは自然な成り行きだと思う。 349本当にあった怖い名無し2018/10/02(火) 18:50:50.57ID:1gkVsHrM0
スサノオには、そういう意味もあるかも、なのですね。
ありがとうございました。参考にさせていただきます。
天の岩戸は、2日後の10月4日に締まります(今までは、半びらきの
状態から、すこしずつしまっていました。なので、閑散としてきていた、
ということのようです)。
すみませんでした。閉めていたことを忘れていました。
以上、お知らせです。今年は、これで、一段落。また、来年ですね。では。
ではなく、もう少し、これから年末にかけて、ちょっと面白いことがある、
とのことですが・・・さて?ではまた。 332地の民(呼ばれると困るのよ)2018/09/27(木) 06:30:22.99ID:oMAZKyOv0>>334>>355
479地の民(呼ばれると困るのよ) (ワッチョイ 7772-SmBW)2018/09/27(木) 06:26:12.29ID:oMAZKyOv0
で、台風は、いろいろな影響を与えますよ。ふふ。すす、くすくす。
永遠なる愛を。マリアトリニティから、山麓から、アスカへ、そして、鳥取
ではなく、島根へ。この流れで、なにかが、よい方向にいくとよい。
それを祈ります♪
卒業生はいますよ。>>341
355本当にあった怖い名無し2018/10/04(木) 06:18:58.82ID:QkDNoUo80
>>332
>卒業生はどちらさまですか?
日本電気社員、日本テレビ、日本アルプス電子、日本航空電子工業・・・
そういった名称(特徴があるでしょ)の社員の・・・とか。あとは、ヘッドとかね。 なに、十月四日って何かあるの?
臺與(とよ)の日だから? 臺與(台与)にしても壹與(壱与)にしても、十四(14)よね。 三重県四日市市には、十四川という川があるのだけど、
この川の名前は、呪いの心「呪志」の転訛なんだそうです。
色々な見方があるものです。
>川名の「十四」を「呪志」 の転化とみ、
>「のろし」 と理解したようである。
(出典:『皇学館大学史料編纂所報 平成 16 年 8 月 10 日』より) だから、遊牧民なんてどこにいるのよ?
今の日本に、遊牧の民っているの? 遊牧民なんてものがいるとしたら、国のトップ、
つまり祭祀や政(まつりごと)のトップをやってるに決まってるじゃない。 古神道なんて、そんなものありませんから。
あるように見せかけたい人たちがいるだけ。 >>569
神様ごとのトップやってる人たち以外に誰がいるのよ。
そこに触れるのが怖くて、保険金殺人ばばあとか言ってるだけじゃない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています