宇宙人の秘密基地
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>>406 訂正 草花は乙(きのと)の象意。 → 草花を象意とするのは乙。 青白半々のスサノオに、 太陽の赤を表す天照。 スサノオの 11 に sun が加わって 14。 これが、ヘブライ語アレフベートの中心部分であり、 ゼウス家の旗印が、赤、白、青のトリロールカラーであるゆえんでもある。 >>406 日下(草下)とは、日(鏡)の下にある剣(7)、 つまりスサノオを表すと言ってもよい。 ここでもまた、 三位一体を形成するのに三位は必要なく、 二位で足りることが示される。 青白半々で表されるのは水であり、 赤は火、日、または太陽である。 これは、 青波白波の海に太陽でもよいし、 青い空に白い雲、そして太陽でもよい。 海を走る火球でもよいでしょう。 草という字は、草かんむりに早。 早は人(日と十)であり fire である。 出早布留は "exit full of fire" というほどの意味である。 吾は "exit full of fire" である。 O (70)目 Z (7)剣 77 だから、この部分は、 日の本を表してるわけ。 >>408 >五(いつ)と六(みつ)が合わさって十一となるとき、 >11 は 1(ひと)と 1(ひと)に分かれて左右に配置される。 1 と 1 の間にアラビア系言語で火を意味する Nar が入って、 1NAR1 または 1NR1 → 稲荷になるわけ。 ミホノスズメを祭神とする楡山神社(にれやまじんじゃ)。 山そのものを御神体とするそのコンセプトは、 建御名方を祀る諏訪大社の守屋山(モリヤさん)と同じ。 Twitter はアカウントもってますけど、 つぶやいたことは一度もない。 つぶやくという行為が好きじゃないので。 アカウント作ったとき何となくフォローした相手のツイートを時々眺めてるだけ。 Twitter の仕組みは詳しくないですが、 ログインした状態でクリックや検索をすると、 勝手に誰かのお友達認定されたり、 相手に通知が行ったりしませんか。 フォローしてない人のツイートが表示されるのもいやだし、 あまり利用したくない。 チ○○ン電車のチ○○ンって言ってみ? チ○○ンって声出して言ってみ? 癒されるだろ? 女はそれ言うと癒されるんだよ。 チ○○ン、チ○○ン、 そう言って一人で受けていた D。 遠い日の思い出。 ネットも工作だらけですけど、 わたくしのネット活動上の清廉潔白さは、 王立諜報機関の調査員が一番よくご存じだと思いますわよ。 是月、朴井連雄君、奏天皇曰「臣、以有私事、獨至美濃。 時、朝庭宣美濃・尾張兩國司曰、爲造山陵、豫差定人夫。 則人別令執兵。臣以爲、非爲山陵必有事矣、若不早避當有危歟。」 −『日本書紀巻二十八天武天皇紀』より − 現代語訳(大意) この月、朴井連雄君(エノイノムラジオキミ)は天皇に申し上げた 「私事で美濃へ行ったとき、朝廷は、美濃尾張両国の国司に告げました。 山陵(丘陵の墓)を造るため人夫を集めて武装させなさいと。 これは山陵の為などではなく、必ず有事となります。急がなければ危険が及びます。」 朴井 雄君(えのい の おきみ、生年不詳 - 天武天皇5年(676年)6月)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は榎井とも、朴井氏は物部氏の同族であり物部とも記される。姓は連。物部尾輿の孫にあたる朴井真古または物部守屋の子で、 − Wiki より − 朴井連雄君は物部守屋の息子、物部雄君である。 http://web.sanin.jp/p/daisenking/1/7/8/1/ 楽楽福神社(ささふくじんじゃ) >楽楽福神社の祭神は、竹で目を突き一眼を失ったため「その土地では竹を植えない」、 また御神体が朴の木で出来ているので「朴歯の下駄は履いてはならない」との言い伝えが残っています。< 牛鬼を退治したとされる孝霊天皇を祀る神社。 御神体が朴の木であることから、 孝霊天皇は「朴」(ホホノキ)で象徴されていると考えられる。 一方、竹で目を突き一眼を失ったため「その土地では竹を植えない」とあることから、 牛鬼は「竹」と関連付けられる。 孝霊天皇は第七代天皇で、欠史八代に含まれる。 (竹と土蜘蛛の関連については、 https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1485185558/ の 869 〜 874)。 え の き [0] 【榎▼・朴▽】 ニレ科の落葉高木。 ほおほほ [1] 【朴▽・〈厚朴〉】 ホオノキの別名。 【ぼく】[漢字] 【朴】 [音] ボク (切り出しただけで何も手を加えていない材木のように)うわべを飾らない。すなお。 − 以上 Weblio辞書より − 楽楽福神社は三社あり、以下は日南町宮内の楽楽福神社の由緒書き。 >時節は五月のなかばにして雨が多く降り里人は畏みて菅の蓑と笠とを奉った。< >そして其の地をお立ちになる時 「むら雨の露のなさけの名残りをば此処にぬぎ置く菅の蓑笠」と御歌を詠まれた。< >>427 阿射加の荒ぶる神を祀る阿射加神社に、 荒ぶる神を「征伐」したワタラヒの大若子が祀られていることからもわかるように、 祭神とその神が「征伐」した相手の属性は入れ替わっていることがあります。 むしろ、征伐した相手に取って代わり、属性を入れ換えるのが基本くらいに捉えても大きな間違いではないと思われます。 ただし、本来の人物や事物に本来の属性が一致する場合も当然あるため、単純には考えられません。 土蜘蛛退治については多くがペンディングにされるべきだと思います。 土蜘蛛に関してはペンディングですが、 物部氏(=須花野氏=朴氏)が現王朝であることは確実です。 物部氏が前王朝であったというのは誤謬です。 朴(ホホノキ)は楡の木の一種です。 >>426 朴氏は美濃を本拠地とする物部氏の一族だったようです。 79 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2018/08/21(火) 19:52:09.41 ID:5iVxtvB80 [3/7] >シカは賢い。 >・店先に陳列されたシカせんべいを食べない。 >・俺が店のおばちゃんに金を払いシカせんべいを買った。 >・そのとたんに後ろからシカが頭突きし、倒れた俺からシカせんべいを奪った。 >貨幣の授受でシカせんべいの所有権がおばちゃんから俺に移譲されたことを理解して攻撃してる。 >あいつら『所有権』と『貨幣経済』の概念を持ってる。 本当だろうか。 シカシ、賢い。 一方こんな人も。 56 :名無しさん@1周年:2015/08/08(土) 16:13:42.84 ID:PQP6FAo/0 なにが鹿が神様だよ ただの危険動物だよ 放し飼いにしている方が頭がおかしいんだよ 93 :名無しさん@1周年:2015/08/08(土) 16:24:06.92 ID:PQP6FAo/0 >>85 なにいってるだ 奈良のこうたまんはわしじゃ おまえらが 国から出て行け >>416 > O (70)目 > Z (7)剣 > 77 > > だから、この部分は、 > 日の本を表してるわけ。 O (70)目に相当する ヘブライ語アレフベート 16 番目の文字 Ayin は 目を表すと同時に fountain という意味もある。 fountain は泉、出水、水源、源。 梟帥/建(タケル) 梟(フクロウ)の帥と書いてタケルと読むのはご存じですよね。 古代の部族を率いた族長のことです。 梟にはそれ一字で、強い、猛々しいといった意味があります。 人間の呪い殺し=呪殺を実践し、成功している輩が居る。 (29)、田中卓博士は、この船木を宮川上流域の大宮町船木に比定され、 筆者も皇大神宮別官の瀧原宮・瀧原並宮の鎮座地を論ずる(鵠寵轄特懸軍覇)中で、 その可能性を前提に述べたが、 大宮町の船木は、慶長八年 (一六〇三)年成立の『舟木氏系図』には、 貞治二年(一三六三) に、土岐氏の一族である舟木頼尚が三瀬谷より一志郡堀内(晒難哺)へ移った際、 その旧跡を譜代の家人に給し、百姓が入って一邑となったので、舟木村と号したとある。 古代に潤って船木氏との関わりが証明されるのは、現在のところ朝明郡のみである。 (『皇学館大学史料編纂所報 平成 16 年 8 月 10 日』より) >田中卓博士は、この船木を宮川上流域の大宮町船木に比定され〈 この船木というのがどの船木を指すのか文中で明確ではありませんが、 田中卓博士は『住吉大社神代記』の研究で著名な著述があることから、 この船木は『住吉大社神代記』中の『船木等本記』に現れる 「坐。此伊西國舩木在。」(伊西國舩木に坐す。」の舩木のことであると思われます。 文中では続いて、 宮川上流域の大宮町船木(現度会郡大紀町船木)について、 「土岐一族である舟木頼尚が」、 「三瀬谷より一志郡堀内へ移った際」に成立した村であるとしており、 度会郡大宮町船木が、『住吉大社神代記』中の「伊西國舩木」ではないことが断られています。 >>440 慶長八年(一六〇三)年成立の『舟木氏系図』について、 この記事のソースになったと思われるサイトがある。 http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373267188.html ただし、皇学館大学史料編纂所報の筆者は、 ネットで閲覧したのではなく、 紙の資料に当たられた可能性が高いと思われます。 >>442 の系図 >頼尚・父の命に応じ、熊野を越えて、勢州多藝郡三瀬谷に赴く、 勢州は先祖の所任、且つ國司・宮方であるを以ってである。〈 これが正平 8 年(1363 年)のこととされる。 勢州多藝郡三瀬谷は現在の三重県多気郡大台町佐原近辺にある地名。 宮川という大きな河川をはさんだ向かい側に大宮町船木(度会郡大紀町船木)がある。 川には舟木橋という橋が架かっています。 多藝郡三瀬谷の城としてはかつて、 三瀬砦(下三瀬城)、三瀬館(三瀬御所)があったものの、 いずれも織田信長の時代まで存在していた。 1363 年に「堀内城へ移った舟木氏」の城とは無関係でしょう。 『古事記』 「猿田毘古神、阿邪訶に坐す」 『日本書紀』の一書 「伊勢の狭長田の五十鈴川上に到る べし」 『古事記』 「手力男神は佐那那縣に坐すなり」 >並びに百姓を入れる、今一邑である、舟木村と号す。< (旧跡に百姓を入れて、今や 1 つの村となったのを舟木村と称した。) 三瀬谷は多気郡、 舟木村は度会郡、 宮川とい大きな川を挟んで反対側に位置する関係です。 訂正 宮川とい大きな川 → 宮川という大きな川 >此によって三瀬谷舟木村の百姓等、貢米を堀内に納める。< 堀内は一志郡、 ちなみに、堀内のある一志郡阿射賀一帯は、 伊勢神宮創建以来、外宮直轄の御厨(みくりや)となっていた。 一志郡の年貢米を度会郡に納めることはあっても、 度会郡の年貢米を一志郡に納めたとは到底考えられない。 >伊勢神宮創建以来、外宮直轄の御厨(みくりや)となっていた。 外宮ができたのは後からとされていますので、 伊勢神宮創建以来ではなく、外宮創建以来ですね。 竹ごおりの三瀬谷と、 わたらひごおり舟木村は、 確かに徒歩で行けるくらい近距離ですが、 川をはさんだ向こう岸、しかも郡(こおり)をまたいだ地域に、 新しく一村を設けて年貢を納めさせることなど可能だったのでしょうか。 >>443-445 同じ竹ごおりでも三瀬谷ではなく、 佐那のあたりなら、まだわかります。 それでも、佐那神社の神官としてて静謐な暮らしをしている「同族」を、 武士が一族郎党を引き連れて頼って行っても、迷惑をかけるだけでしょう。 しかし、佐那ではなく、あくまでも三瀬谷なのです。 https://2ch.vet/re_toro_occult_1485185558_683_2000 928 YHVH 2018/01/09(火) 14:22:52.93 ID:Huqw305r0 東大寺文書(『平安遺文』)には、 伊勢の舟木が東大寺の荘園に寄進または地代を納めたことが記録されている。 『船木弟虫』;伊勢ノ船来直(船木直。船木−伊勢国朝明郡舟木明神祠官。西脇−同郡耳 利神社祠官)、船木臣、 船木宿祢(舟木、堀内−伊勢国一志郡人。乙部、中村−伊勢人) (平安遺文 古文書編 第一巻) 古文書編第一巻の年代は「自延暦2年(783)至康保5年(968)」とあるので、 舟木氏は遅くとも 8 〜 10 世紀ころには、一志郡堀之内に拠点を定めていたことになる。 >>440 >土岐氏の一族である舟木頼尚が三瀬谷より一志郡堀内(晒難哺)へ移った際、 当該の系図には、舟木氏が三瀬谷より一志郡堀内へ移った経緯は書かれていません。 しかし、 >>452 の東大寺文書に見える一志郡堀内の舟木氏と、 >>442 の系図に記された土岐一族の舟木氏が同じものとは考えられません。 9 世紀に在位した清和天皇を祖とする清和源氏土岐一族の舟木氏が、 遅くとも 8 〜 10 世紀に既に一志郡堀内に存在したとするのは矛盾があるからです。 一志郡の舟木氏が、美濃発祥の清和源氏土岐一族であるとするのは無理があります。 出雲建子「ワイとこのパートナーの○木はんが 何で美濃から来たことになっとんのや。 美濃いうたらあんた、南伊勢の元の巣やないか。 それがほんまやったら、もう生きとっても仕方ない。 今すぐ腹切ったるわ。」 ジョセフィーヌ「早まらんといておくれやす。 これにはきっと深いわけがおますよってに。」 (続く) 932 :YHVH:2018/01/12(金) 17:08:55.21 ID:5zoLOW/p0.net[3/10] 并新羅國征時,大田田命、神田田命,伐取己所領山岑樹,而造船三艘。 本造舩者,乘 皇后并大神臣八腹。次中腹赤造舩者,乘日御子等。 次末造舩,御子等并大田田命、 神田田命,共乘渡征。即有大幸,祈?天神地祇在驗。 大幸還上賜。 其御舩,令奉齋祀 武?宿禰一,志麻社、靜火社、伊達社,此三前神也。 即大田田命子神田田命子神背都 比古命。此神者,天賣移乃命兒富止比女乃命娶生兒。 先者,伊P川比古乃命。此神者 ,伊P玉移比古女乃命娶坐,此伊西國舩木在。 −『住吉大社神代記』より− 神功皇后の三韓征伐の際、舟木氏が船を造って皇后を乗せた条(くだり)です。 後半を抄訳すると、 大田田命の子である神田田命の子、神背都比古命が天賣移乃命兒富止比女乃命を娶っ て産んだのが、 伊P川比古乃命で、この人は神であり、伊P玉移比古女乃命を娶って伊西(伊勢)の国舩 木に坐す。 となります。 伊P川比古乃命は「いせつひこのみこと」と読みます。 >>440-441 ここでは、 『住吉大社神代記』の『船木等本記』にある 「伊西國舩木に坐す。」の伊西國舩木が、 宮川上流域の大宮町船木(現在の度会郡大紀町船木)ではないことが、 皇学館大学史料編纂所によって明らかにされています。 そして、その論拠となっているのが 慶長八年(1603 年)成立の『舟木氏系図』です。 さて、その舟木系図ですが、 >「仁左衛門光長」が改名した時期は北畠具教卿が逝去(天正4年)された後 >「舟木姓」から「中村姓」に改名と舟木系図に記載されています。 >父 光経が戦功で賜った「中村谷」に居を構えた故「中村姓」にしたようです (出典: http://minogenji.html.xdomain.jp/page019.html ) 申し訳ないのですが、 土岐源氏の方たちが集うフォーラムにある掲示板から勝手に引用させていただきました。 ここでは、 (舟木)光経が戦功で賜った「中村谷」に居を構えた故、 「舟木姓」から「中村姓」に改名したと舟木系図に記載されている旨を、 舟木氏の子孫の方が述べられています。 >土岐氏系舟木光経の子光長が中村谷に住んで中村仁左衛生門を称し、 (出典: http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/best10/nakamura.html ) 「中村谷」というのは、 伊勢国司北畠氏とその家臣団が支配した地域で、 阿射加から嬉野の中村川流域を指します。 中村谷七城と呼ばれる 7 つのの 1 つには 舟木氏の堀内城も含まれました。 しかるに、>>452 の『平安遺文 古文書編 第一巻』に 「乙部、中村−伊勢人)」とあるように、 舟木氏の同族である中村氏は、 この古文書が成立した 783 〜 968 年には、 伊勢一志郡の乙部に既にいたことになります。 ですので、 伊勢国中村谷におこる清和源氏土岐氏流の中村氏 (http://www.kakeisi.com/roots/myoji_yamamoto.html ) というのはおかしいです。 舟 木 左 衞門權 尉 光俊 I ョ光 十七 代。 寳者正 ョニ男 ? 舟 木 孫九カ 光正 母 本 田 氏。 舉^。 -舟木 兵 部少輔 光ョ, 孫 九郎遠 跡。 本 田 氏。 舟 木 三 郎左衞 門 光經, 母 多 ?主水 佑 女 一 正ョ之 嫡男 孫 五 カ康正 者。 爲乙部 家 之 養子 S 。稱乙 部 右 馬頭。 以元來 親族 之 好 也。 三男 三 カ兵衞 者 住于小 倭" 稱堀 内孫 介。 >正ョ之 嫡男 孫 五 カ康正 者。爲乙部 家 之 養子 >S 。稱乙 部 右 馬頭。 以元來 親族 之 好 也。 >正ョ之 嫡男 孫 五 カ康正 者。爲乙部 家 之 養子 >S 。稱乙 部 右 馬頭。 以元來 親族 之 好 也。 正ョの嫡男、孫 五 カ康正という者が乙部家の養子になり、 乙 部 右 馬頭と名乗った。 以来、親族のように付き合っている。 と書かれています。しかし、 舟木正ョという名は舟木氏の系図にはありません。 乙部というのは一志郡東部の海岸寄りにある地名です。 この乙部に、舟木一族の中村氏は 10 世紀以前からいたのです。 https://2ch.vet/re_toro_occult_1485185558_902_2000 987 YHVH 2018/02/06(火) 16:35:44.99 ID:8zp9Yw6p0 >美濃(今の岐阜県)の土岐一族に船木氏、乙部氏がおり、 >この乙部氏は北京都の綾部氏とつながりがある。 >丹波の国の亀山城で小早川秀秋に仕えていた家臣団に乙部氏の名が見える。 亀山城は明智光秀によって丹波統治の拠点として築かれた城。 989 YHVH 2018/02/06(火) 17:02:33.77 ID:8zp9Yw6p0 988 >神代から伊勢にいる舟木氏とその弟筋がいた土地(乙部)、 >この船木と乙部の組み合わせが他の地域に存在すること自体が、はっきり言って面妖。 >>464 > 亀山城は明智光秀によって丹波統治の拠点として築かれた城。 こんな符合もあります。 舟木頼尚 : 舟木頼重(頼直/頼真)の曾孫、頼春(頼玄/頼員)の孫、頼夏の子、政尚の父 、政頼の祖父、光俊の曾祖父。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)[1]は、その後裔であ る。 明智頼尚 : 明智頼重(頼助)[2]の8世の孫、頼篤の7世の孫、国篤の6世の孫、頼秋の玄 孫、頼秀の曾孫、頼弘の孫、頼定の子、頼典(よりなお、光継)・頼明の父。 (出典: http://ja.japan.wikia.com/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E5%B0%9A ) 舟木頼尚 : 舟木頼重(頼直/頼真)の曾孫、頼春(頼玄/頼員)の孫、頼夏の子、政尚の父 政頼の祖父、光俊の曾祖父。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)[1]は、その後裔である。 明智頼尚 : 明智頼重(頼助)[2]の8世の孫、頼篤の7世の孫、国篤の6世の孫、頼秋の玄孫、 頼秀の曾孫、頼弘の孫、頼定の子、頼典(よりなお、光継)・頼明の父。 (出典: http://ja.japan.wikia.com/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E5%B0%9A ) 「舟木系図」は慶長八年(1603)に伊勢国渡会郡山田住人なるものが、 蒲生氏郷に仕えた舟木光春の子正光の命をうけて、 その家伝と自身の識るところをあわせて作成したと後書にあり、 編者は、伊勢舟木氏の関係者だろう。 その記事はすでに大田亮が『姓氏家系大辞典』で指摘しているように、 美濃舟木氏、近江舟木氏、伊勢舟木氏のそれぞれ別系の所伝を混同したもので、信憑性がうすい。 鎌倉末期の花園天皇のころ、 舟木氏が伊勢守護になったという証拠もない。 したがって高松頼重が建武政権によって任ぜられた讃岐守護であったということを、「舟木系図」によって証することは困難であり、頼重が土岐一族の舟木氏であることも確実とはいえなくなってくる。」(219〜220頁) (出典: http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view& ;id=1000065848) 伊勢国渡会郡山田住人なるものが、 舟木光春の子正光の命をうけて作成したものとあります。 ということは、 『住吉大社神代記』にある 「伊西國舩木に坐す。」の伊西國舩木が、 宮川上流域の大宮町船木(現在の度会郡大紀町船木)ではないとする( >>440-441 ) 皇学館大学史料編纂所の見解の論拠は、 きわめて信憑性が薄いということになります。 念のためにお断りしておきますが、ここで、 『住吉大社神代記』にある 「伊西國舩木に坐す。」の伊西國舩木が、 度会郡大宮町船木(=度会郡大紀町船木)ではない、 としているのは皇学館大学史料編纂所です。 それでは、東大寺文書(『平安遺文』)(>452)に見える、 伊勢の国一志郡堀内の人、舟木さんと、 同じく伊勢乙部の中村さんは、 果たしてどこへ行ってしまったのでしょうか。 消されてしまったのでしょうか。 それとも系図を書き換えられただけでしょうか。 わたしは後者だと思います。 >>469 大宮町船木(度会郡大紀町船木)の舟木村、 つまり多気郡三瀬谷の opposite side に位置する舟木村は 一志郡舟木氏の廃城跡などではないと考えます。 多気郡三瀬谷に一志郡舟木氏の拠点があったとするのは虚偽である蓋然性が高い。 これは皇学館大学史料編纂所の見解とは異なります。 そして、これは個人的な憶測に過ぎませんが、 度会郡大宮町(大紀町)船木村は 『住吉大社神代記』の成立後間もなくして設けられたのだと思う。 一志郡土着の舟木氏を 美濃発祥の清和源氏土岐一族にしようとする意図と、 度会郡大宮町の船木を『住吉大社神代記』にある「伊西に坐す舩木」の船木にしようとする意図が butting して conflict を来した例であると考えています。 >452 >『船木弟虫』;伊勢ノ船来直(船木直。 >船木−伊勢国朝明郡舟木明神祠官。西脇−同郡耳 この伊勢ノ船来直(船木直は、 『古事記』の神武段に同一と思われる名が見えます。 「意冨臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、 筑紫三家連、雀部臣、雀部造。 小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥石城国造 、常道仲国造、長狭国造、 伊勢舩木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等」 (『古事記』神武段より) 同じ段に記されている氏族から、こちらの系統と思われます。 http://tokyox.matrix.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/11/IMG_2894-0.png >>452 >伊勢国朝明郡舟木明神祠官 伊勢国朝明郡は現在の三重県四日市の一部とその周辺を含む地域を指す。 http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081112-01.html 耳常神社 舟木直の祀る耳常神社は、舟木明神または春日明神と呼ばれていた。 >>461 訂正 > 中村谷七城と呼ばれる 7 つのの 1 つには ○7 つの城の 1 つには 朝明郡の舟木氏については後述します。 それまてペンディングとします。 >>461 ではなくて >>460 でした。 ○中村谷七城と呼ばれる 7 つの城の 1 つには だから、8 〜 9 世紀の東大寺文書に「中村」とあるのに、 14 世紀以降に仕えた北畠氏から中村谷を賜ったので中村を名乗ったというのはおかしいでしょう。 >>467 美濃の明智氏とのこの奇妙な符合からしても、 一志郡土着の舟木氏が自ら系図を書き換えたとは、 わたしには思えない。 伊勢国渡会郡山田住人なるもの(>>468 )とは何者なのか。 ちなみに、神官家の祖神である天日鷲命の妻、弥豆佐佐良比売命(みずささらひめ)は、 この山田村の村長の娘であったとされている。 http://www.amigo2.ne.jp/ ~fuchisai/home/denki.htm これは北畠氏列伝。 正平八年(1353 年)、土岐一族の舟木頼夏の子、頼尚が伊勢入りするところから始まる。 http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373267188.html こちらの舟木系図では、 文和元年/正平7年(1352 年)、頼夏・別腹の子兵庫助頼尚を美濃國土岐に移して一族土岐家に属させる。 とある。 もし仮に、 一志郡に土着していた舟木氏が、 美濃の清和源氏土岐一族の舟木氏と途中で入れ替わってしまったのだとしたら、 舟木氏と一緒にいる出口氏も美濃から来た一党だと考えられます。 http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373267188.html >貞治二年(1363 年)、城を一志郡堀の内に構えて之に移る。 これによれば、 多藝郡三瀬谷から堀之内城へ移ったのは頼尚と子の正尚の時代。 その後裔、中村仁右衛門光長が△△城主となる。 多藝郡三瀬谷から一志郡堀之内城へ移ったのは、 舟木頼尚とその子、正尚の時代。 その後裔、中村仁右衛門光長が△△城主となる。 △△城 城主、中村仁右衛門尉光長(舟木光春の弟)がこの城を築いたのは、 天正年間(1573 〜 1592 年)のこととされる。 しかるに、この△△城、 出口氏が明治初期までその跡地に住んでいた城ですが、 遅くとも 7 世紀には同じ場所に存在していたと考えられます。 このことは、城跡地の四辺を囲む道の形からわかります。 こっちに来たい地球防衛軍の方々は受け入れます。会社が1億位資金不足になってますので助けてくれ。 △△城は周囲を囲む四辺のうち、 北辺と東辺が旧伊勢街道に接道しています。 旧伊勢街道のこの部分を、 曲尺定規のように直角に折れ曲がっていると表現している人がいますが、 これは△△城があったためです。 旧伊勢街道は別名参宮街道といい、 斎宮、そして伊勢神宮へつながっています。 斎宮や伊勢神宮へつながる道が、 △△城を迂回して折れ曲がっているということは、 遅くとも伊勢神宮が創建され、斎宮制度が成立した時点で、 この城がすでに存在していたことを意味します。 今の旧伊勢街道は、蒲生氏郷が松坂へ入ったとき整備されたもので、 古代には使われていなかったとされています。 これは確かにそのとおりなのですが、 この古代というのは平安時代末期の 11 〜 12 世紀以降のことです。 それまで、つまり、伊勢神宮が創建され斎宮が成立したと考えられる飛鳥時代から平安時代までは、 この旧伊勢街道が神宮への道として使われていました。 実際、斎宮歴史博物館の資料(ジオラマを含む)でも、 この旧伊勢街道が正式な斎宮群行路であったことが明確にされています。 初代の斎王は垂仁天皇の皇女、倭姫命とされています。 ですので、伊勢神宮の公式見解を採用するならば、 垂仁天皇が在位した紀元前に、 △△城はすでにこの場所に存在していたことになる。 倭姫命が△△城の北門の前の道を曲がり、 東門の横の道を通って伊勢へと向かったことは史実なのです。 城の敷地が確保されていただけなら、 道路を敷設するとき、真っ直ぐ延ばすこともできたでしょう。 迂回しなくてはならなかったのは、 このときすでに建物が建っていたからです。 天皇や斎王の乗る御輿には、 葱(ねぎ)の花のような形の飾りが付いていたため、 葱華輦(そうかれん)と呼ばれた。 歴代の斎王は、この葱華輦に乗って斎宮へと赴いたのです。 さらに言えば、 この旧伊勢街道の敷設自体に、 当家が関与していた蓋然性も高い。 南伊勢側がこの街道を敷設するとき、 △△城が延長線上あったために迂回したのではなく、 この街道自体、当家が敷設したものであり、 最初から城の敷地の北辺と東辺がそのまま街道になるように形づくって、 南北に延ばしたとも考えられるからです。 街道沿いの広範囲にわたる土地を 当家が戦前まで所有していたことが、その論拠となります。 城の南門より 200 〜 300 メートルほど行くと、 フル川水神があります。 お宮などはなく、 石が置かれているだけの、きわめて原初的な遥拝施設です。 >>498 > △△城が延長線上あったために迂回したのではなく、 ↓ ○延長線上にあったために迂回したのではなく >>500 > 城の南門より 200 〜 300 メートルほど行くと、 ↓ 旧伊勢街道を城の南辺より 200 〜 300 メートルほど南下すると △△城の地形と旧伊勢街道の形は、 いつでも地図で検証できます。 旧伊勢街道が参宮街道として使われてきた史実がある以上、 同街道の成立と同時期またはそれ以前から、 何らかの建物がこの場所に建っていた蓋然性を否定することは不可能です。 何となれば、 当家の祖神は、道引きの神だからです。 「初代斎王」倭姫命(やまとひめのみこと)の父である垂仁(すいにん)天皇は、 『古事記』では伊○○伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)と称される。 『常陸国風土記』では単に伊○○天皇となっている。 △△城の△△ = ○○ 垂仁天皇の陵とされる 菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)の遺跡名は宝来山古墳。 関係ないかもしれませんが、紀州の宝来山神社の祭神には、 猿田彦大神、菅原大神が含まれています。 伊○○は活目とも書く。 まぁ、目が大きくてパッチリしてたんでしょう。 907. 本当にあった怖い名無し 2018/05/29(火) 12:37:54.16 ID:8VppFDUX0 天智天皇って怖い人ですのよ。 皇后、倭姫王(やまとひめのおおきみ)の父君である、 古人大兄皇子(フルひとおおえのおうじ)を謀略にかけて殺害してしまいますの。 ただし、 やまとひめの父親、古人大兄皇子(フルひとおおえのおうじ)は、 殺されることなく長野の皆神山へ逃げのびたという説もありますのね。 皆神山にある皆神神社(熊野出速雄神社:くまのいずはやおじんじゃ)には、 脇座として、この古人大兄皇子(フルひとおおえのおうじ)が祀られていますのよ。 >長野の出速雄神社には、 >やまとひめの父、フルひとおおえのおうじが祀られていますのよ。 小丸山古墳に葬られているのは、 第三十四代舒明天皇の第三皇子古人大兄皇子、または 出速雄命(いつはやおのみこと)ですのよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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