【ダーリン】宇宙人の秘密基地【ジョセフィーヌ】
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A は知らなかったのだけど、
D の正体はそもそも最初から、
神官家(南伊勢、北京都、美濃尾張)系だったのよ。
なので、草加婦人部の婦人が奪還しにやって来るのは当然だったわけ。 A は最近までそのことに気付かなかったので、
自分が一体どうして、草加婦人部の人たちに付きまとわれるのか、わからなかったのね。 変な人に付きまとわれて嫌がらせされる理由が本当にわからなかった。
でも、その理由がわかると同時に、
つまり D が草加であったことに気付いたと同時に、
A は、王仁三郎が自分は天皇だと言っていた理由もわかった。 それは、A のうちが△△城の出口氏だったから。
王仁三郎は A に、自身の、王仁三郎のマトリックスを
食い破って出て行くことを望んでいたのだと。 >>768-771
そもそも、これ最初から最後まで、
ダーリンとジョセフィーヌのことだから。
コピペ貼りや○○タッチさんの肉体は、まったくあずかり知らぬこと。 肉体以前に、
二人の間のいわゆるテレパシーにも、
まったく関与できないのに、
一体何を騒いでいるのか、やはりわからないわ。 だから、
わたしを呪えば、じゃぁ、あなた、仙人とテレパシーできるようになるわけ? そう確かに、
ジョセフィーヌ対コピペ貼りや○○タッチさんの対立抗争なんて無意味。
メタマトリックスさえ夢の世界なのだから。
カルロスカスタネダ著ドンファンシリーズを読んでいるのは、
ダヴィンチの「ラストサパー」を見ているのは、
誰かということ。 今わかりましたわ。
中大兄皇子と中臣鎌足は同一人物でしたのね。
この二人に殺された蘇我入鹿は聖徳太子のこと。
そして、聖徳太子はオリジナルの日本人の応神天皇でしたのよ。
つまり、
中大兄皇子(天智天皇)= 中臣鎌足 = 王仁(百済人)
蘇我入鹿 = 聖徳太子 = 応神天皇(オリジナルの日本人) 舟木氏が神八井命の裔であることと、
聖徳太子のまたの名が「豊聡耳」(とよとみみ)であることが、
これで繋がりますでしょう。 >>795
訂正
舟木氏が神八井命の裔であることとと
↓
舟木氏が神八井耳命の裔であることと 大体この時期(5 〜 6 世紀頃)、
日十大王という人物がいたとされる。
十の太陽を操ったことからこの名で呼ばれているらしいのだけど、
この人物については聖徳太子と同一視する説もあるし、、
応神天皇と同一であるとする説もある。 天智天皇の跡目争いの壬申の乱で、
大海人皇子(天武天皇)がたどった軌跡と、
伊勢の神宮の創建にあたって倭姫がたどった軌跡が重なるわけもわかる。 >>795
豊臣秀吉のニックネームがなぜ、
○田彦の○であるかもわかる。 壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)がたどった軌跡については Wikipedia、
倭姫が天照を抱いてたどった軌跡は『倭姫命世記』(http://nire.main.jp/rouman/sinwa/yamatohime.htm)を読むとわかります。 天智天皇の妃は倭姫王。
その父親が、蘇我入鹿の従兄にあたる古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)。
この古人大兄皇子の墓があるのが、長野県皆神山の熊野出速雄神社(皆神神社)。
出速雄は建御名方の後裔であることは以前にも書きました。 聖徳太子と菅原道真も同族です。
道明寺: 土師寺(はじでら)とも。
推古朝に土師氏(菅原氏の祖先)が氏寺として建立し,聖徳太子が命名したと伝える。
菅原道真の伯母覚寿尼が住してより尼寺となる。
寺内の天満宮は維新後土師神社と改称。(コトバンクより) 皆神山へ逃げ延びた古人大兄皇子(出早雄)は、
壬申の乱で自刃した大友皇子と重なっている。 古人大兄皇子(倭姫王のお父さん)= 出早布留(いつはやふる)=日十大王
出口氏が蘇我氏で表されているから、
王朝交代の歴史は完全に闇の中に没し去ってしまっている。 大伴氏と△△城の△△氏は同祖。
道臣命を祖としている。
姓氏が全部改変されちゃってるんだもの。
わからないですよ、それは何も。 大化の改新の始まりは乙巳(イッシ)の変。
いしごおり(一志郡)が舞台であったのは自明の理です。 壬申の乱のとき、朝明郡(あさけごおり、今の四日市市)の十四川で、
天武天皇が伊勢の神宮を用拜して戦勝祈願したとされている理由もわかるでしょう(>>43)。 567 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2018/10/04(木) 14:52:55.69 ID:i13H7fDd0 [3/25]
三重県四日市市には、十四川という川があるのだけど、
この川の名前は、呪いの心「呪志」の転訛なんだそうです。
色々な見方があるものです。
>川名の「十四」を「呪志」 の転化とみ、
>「のろし」 と理解したようである。
(出典:『皇学館大学史料編纂所報 平成 16 年 8 月 10 日』より) >>768-773
この時点において既に、
肉体レベルで完全にハブられていることに気付くべきだったんじゃないの。 >>766
レプティリアンとドラコさんは違う種族だよ。
どっちかというとドラコさんが上でレプティが下の力関係
どっちかというとというのは、個体によっては強いレプティもいるし弱めなドラコさん個体もいるから。
どっちかというとドラコさんはレプティちゃんより気品があって強そうにみえるし頭もいい。←むろん個体によって差異があるけど。 ドラコさんの気高いタイプ系は神々しさがあるし話のわかるタイプだから←相対する相手によるけどw
違う種族でも同じく高尚なタイプなら打ち解けて話してくれると思うよ。ヒューマノイド系より物知りな分野もあるし。
気高いタイプ系は、あんましちょこまか姿を見せなくて、くだらない生物とは関わりあいたくなくてプライドも高くて難しい事を考えてる。 >>799-801
倭姫命が、叔母であり前任者であった、
皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)から任務をバトンタッチされ、
天照大神を抱いて辿った軌跡は次のとおり。
大和国を出立
奈良県御杖村御杖神社
↓
伊賀国隠市守宮(なばりのいちもりのみや)
↓
伊賀国穴穂宮(あなほのみや)
↓
伊賀国阿閇柘殖宮、敢都美恵宮(あへとみえのみや)
↓
近江国
↓
美濃国
↓
尾張国 (続き、ここより伊勢へ入る)
桑名(三重県桑名市)
↓
鈴鹿(鈴鹿市)
↓
安濃国(津市)
↓
ここより一志郡
壱志阿佐加(松阪市)
↓
飯野高宮(松阪市)
↓
飯野高宮(多気郡明和町)
↓
伊蘓宮(伊勢市)、または相可上神社(多気郡)
↓
五十鈴宮(皇大神宮) >>814【一部訂正】
ここより一志郡
壱志阿佐加(旧一志郡、現松阪市阿坂)
↓
飯野高宮(旧飯南郡、現松阪市山添町)
↓
多気佐々牟?宮(多気郡明和町)
↓
伊蘓宮(伊勢市)、または相可上神社(多気郡)
↓
五十鈴宮(皇大神宮) 壬申の乱における大海人皇子の軌跡
名張(>>813 の隠(なばり)に同じ)
↓
美濃、伊勢、伊賀、熊野その他の豪族の信を得る
↓
伊賀(阿拝郡司が参戦)
↓
積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の軍と合流
↓
伊勢
↓
美濃へ。不破(現在の岐阜県関が原)を封鎖。 大海人の主な臣下。
和珥部君手(わにべのきみて)← ご存じワニ氏
胆香瓦安倍(いかごのあべ)← 伊賀のアヘシヒコ
朴井雄君(えのいのおきみ)← 物部のボクテ >>814
桑名の野代宮(くわなののしろのみや)では、、
神官家度会氏の祖である大若子命(大幡主命)が現れ、
以降、倭姫命の伊勢国での行程の案内役を務める。 桑名、鈴鹿、津を経て一志郡へ入り、
神宮のある南伊勢まで南下する倭姫命の案内役を務める大若子。
これは本当は誰だったでしょうか。 『倭姫命世記』=『古事記』『日本書紀』
記紀では、天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の先導役を務めたのは猿田彦。
大若子命(倭姫命のガイド役)=猿田彦
猿田彦 =△△城の城主 では、本物の伊勢の神宮家の度会氏は?
>>817
この 3 人を含む、または、この 3 人に関与する複合体。
倭姫命に美濃尾張からついてきた人たち。随伴神。 天鈿女命(あめのうずめ)=天照大神、またはその分身。つまり倭姫命。 もう少し補足すると、
倭姫命がおなかに宿すか、
背中に背負っていた子が、瓊瓊杵尊 = 度会氏の祖。 伊勢たけごおりの大鹿(おおが)は、
元々は船木氏が支配していた。
これに代わったのが隣の御杖村からやって来た王仁氏。
>>817
> 大海人の主な臣下。
>
> 和珥部君手(わにべのきみて)← 王仁ス○ノ氏
> 胆香瓦安倍(いかごのあべ)← 伊賀のアヘシヒコ、伊勢津彦の宿敵
> 朴井雄君(えのいのおきみ)← 物部のボクテ
3 人とも G 県 E 市の人。これが筆頭神官家。 >>825
> 伊勢たけごおりの大鹿(おおが)は、
> 元々は船木氏が支配していた。
ここからは、ジョセフィーヌのスペキュレーションに過ぎないため、
具体的な史料等を挙げて実証することはできません。
出雲からやって来た複合氏族体、五十猛神(イソタケル)。
その主な構成員である船木氏と出口氏は当初、
船木氏が竹ごおり(多気郡)、出口氏が石ごおりを治めて互いに協力し合っていた。 【推論始め】
出雲からやって来た複合氏族体、五十猛神(イソタケル)。
その主な構成員である船木氏と出口氏は当初、
船木氏が竹ごおり(多気郡)、出口氏が石ごおりを治めて、互いに協力し合っていた。
石(イソ)と竹(タケ)で五十猛神(イソタケル)。
五十猛神(イソタケル)と呼ばれる人格神は、
船木、出口、日置を主な構成員とする複合的な氏族集合体。
日置氏は単独でも一氏族として存在するが、
測量士モードの船木氏、出口氏が日置氏を名乗ることもあるため、
船木氏と出口氏の組み合わせのみ存在する場合もある。 測量士モードの船木氏、出口氏が隠れ日置氏であるため、
船木氏と出口氏の組み合わせのみあって、日置氏がいないこともある。 竹ごおりの船木氏を制圧して、
支配者の地位に取って代わったのが、
隣の御杖村からやって来たオージンス○ノ氏(物部中臣)。 伊勢国大鹿首小熊(おおがのおびとおぐま)の女(むすめと読んでね)、
菟名子(うなこ)は敏達天皇の妃に上げられ、二人の内親王を産んで、
のちの天智天皇の祖母となる。
この菟名子は、本当は船木氏の女で、
神功皇后。 応神天皇の母となる神功皇后は、
竹ごおりの船木氏の女(むすめ)、菟名子(ウサギの名の子)。 オージンス○ノ氏は、クロコダイルを船の暗喩として用いた。
神功皇后が和邇氏一族の女であるとする説が有力なのも、このため。
ちなみに、一志郡を東進していた太陽崇拝氏族を和邇氏とした歴史学者がいるのも、
多気郡の船木氏に取って代わったオージンス○ノ氏と混同したと思われる。 敏達天皇と菟名子が結婚する話は、
竹ごおりの船木氏の女と石ごおりの出口氏との婚姻譚(こんいんたん)。 神功皇后、菟名子の夫は、武内宿禰。
この人は竹取物語の竹取の翁(おきな)。
自らの男根、竹の中に娘を孕(はら)んだ。
竹の内に子(ね)を宿した人。 武内宿禰はまた浦島太郎(本名: みずのえのうらしまこ)でもある。
壬(みずのえ)は妊娠の妊であり、壬子は子を孕(はら)むこと。
この場合、神功皇后のウナ子は当然、乙姫でもあることになる。
ウナ子の兎(卯)は乙(きのと)において最も旺ずる。 住吉大社神代記に、船木氏が神功皇后に船を奉ったとあるのも、
倭姫命世記に、竹田の国佐奈(佐那)県造の祖が倭姫命を船で送ったとあるのも、
船木氏が娘を船で送っただけのこと。 倭姫命世記では、このとき、
(つまり、たけごおり、さなのあがた造の祖が倭姫命を船で送ってくれたとき)、
倭姫命は櫛田川に櫛を落とす。
この櫛はギリシャ文字のクシー、クサイの暗喩。
倭姫命は、このとき、クサイ、すなわちイサクを捨てた。 >>836
ワニが白うさぎを送った話もこれ。
本当は船木氏が娘を船で送った話。 猿田彦がヒラフ貝にはさまれて溺れたことになっているのは、
天鈿女(あめのうずめ)が愛宕川近くの平生で櫛を捨てたから。 >>836-837
>佐奈(佐那)県造の祖の弥志呂宿祢命に、
>「汝が国の名は何そ」と問ふと、「こもりく 志多備の国、まくさむ
>毛佐向国(草向ふ国)」と申上げて、神田・神戸を進った。
>また大若子命に「汝が国の名は何そ」と問ふと、
「百張ももはる蘇我の国、五百枝刺いほえさす竹田の国」と申上げた。
>その処に(倭姫の)御櫛が落ちたので、その地を櫛田と名づけ、櫛田社を定められた。
(出典:『倭姫命世記』飯野の高宮より)
ちなみに、前にも書きましたが、
この佐奈(佐那)県にある佐那神社と、
一志郡美濃田町の敏太神社(みぬた神社、三天王社がある)は、
社紋が同じ左三つ巴。
神功皇后と応神天皇にゆかりの神社に多い紋。 竹取の翁(おきな)と浦島太郎と因幡の白うさぎのワニが同じなんて、
日本昔話は奥が深くて面白いですわね。 四面楚歌で有名な、漢の劉邦と楚の項羽の戦いで、
項羽が詠んだとされる、
力抜山兮気蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何
この「虞や虞や汝をいかんせん」も、
実は猿田彦が妻の天鈿女に向けて詠んだ歌が元になっている。 彼女「はいおっぱい(ペターン)」
ワイ「ちゅうちゅう」
ワイ「まま…まま…」ちゅうちゅう
彼女「あっ…も、もうおしまいっ!」
ワイ「ちゅぽんっ!」
彼女「はぁー…はぁー…///」
ワイ「まま、ちゅうちゅうして」ぬぎぬぎボロンッ
彼女「へっ?」
ワイ「まま、まま」ぐりぐり
彼女「んっ…んむぅっ!///」
ワイ「ちゅうちゅう、ちゅうちゅう」
彼女「んぐぅ…ぺろっぺろっ、ちゅううっ…」
ワイ「あっ」ぞくっ!
彼女「ちゅうっ…ぺろぺろ…っじゅるるるる!」
ワイ「まま!まま!ままぁーッ!」がくがく!
彼女「じゅっぽ!じゅっぽ!じゅるる!じゅっぽ!じゅっぽ!っちゅううう!」
ワイ「ああーっ♡ああーっ♡」ビュルルルッ!!
彼女「ごく。ごく。ぷはぁ、いっぱいだせたね。えらいえらい」ナデナデ
ワイ「まま…すき…♡」
彼女「ママもすきだよ」チュッ♪
ワイ「んっ♡すき…すきぃ…♡」チュッチュッ
やばすぎ^^ 892本当にあった怖い名無し2018/04/09(月) 20:33:54.03ID:C/tgMNeh0
【天日鷲命】-【大麻彦命(天日鷲命)】-【阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)】
天日鷲命、大麻彦命、阿波之宇志比古命は阿波国を拠点としていた。(天日鷲命三代
まで阿波国・四代からは安房国)
(出典: http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2016/11/05/202627)
【阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)】の「阿波之宇志彦命」は、
丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)。
古事記、日本書紀に登場する皇族。
百済人の牛王と同一人物か同族である可能性が高いです。 892本当にあった怖い名無し2018/04/09(月) 20:33:54.03ID:C/tgMNeh0
【天日鷲命】-【大麻彦命(天日鷲命)】-【阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)】
天日鷲命、大麻彦命、阿波之宇志比古命は阿波国を拠点としていた。
(天日鷲命三代 まで阿波国・四代からは安房国)
(出典: http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2016/11/05/202627)
【阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)】の「阿波之宇志彦命」は、
丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)。
古事記、日本書紀に登場する皇族。
百済人の牛王と同一人物か同族である可能性が高いです。 907本当にあった怖い名無し2018/04/12(木) 19:10:41.14ID:fgSc5kvD0
建御名方(諏訪長野)= 伊勢津彦(伊賀三重)= 伊豆速布留(勢州阿射加)
「建御名方命の孫にあたる出速雄命」(>>906)と阿射加の伊豆速布留は同一であると考えます。
この 3 神は、阿波忌部を構成する天日鷲、天日別、そして天村雲(いずれも度会氏の祖神)
を介することにより、 イコールで結ばれるわけですが、
さらに、阿波の天日鷲の系統の中に阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)が見え、
これが丹波の丹波比古多々須美知能宇斯王と同一であることから((>>892)、
宇志(牛)氏を介した阿波と北京都とのつながりも検討課題となっています。 >>848-850
> 【阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)】の「阿波之宇志彦命」は、
> 丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)。
> 百済人の牛王と同一人物か同族である可能性が高いです。
丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)は、
父、日子坐王と、母、息長水依比売(オキナガノミズヨリヒメノ命)の間に生まれた子。
日子坐王(ひこますおう)は、
開化天皇と和珥臣(和珥氏)遠祖の女(むすめ)との間に生まれた子で、
墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓(ひこいますのみことのはか、位置)に治定されている。
(Wiki より) >>830-838
せやさかい、
うちが神功ウナ子どす。 初めは、親の治めてた佐那の地にちなんで、
サナ子いう名前どしたんどすけど、
途中で舟木のフナ子になって、
それでは魚の鮒みたいやいうことで、
神八井耳のお耳(33)が長〜いから、ウサ子→ウナ子になりましたんどす。
和邇氏の娘みたいに言われてますけど、
ほんまの旧姓は舟木どす。舟木ウサ子。 >>851
息長水依比売(オキナガノミズヨリヒメ)いうんは、
うちのことどす。
息子の丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)は、
いわゆる応神天皇(王仁)どす。
伊勢神宮の外宮、度会大国玉比賣神社に、
弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめ)として祀られてるんは、うちどす。
おきながみずよりひめ = みずささらひめ、いうことどすえ。 >>851
>丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)は、
>父、日子坐王と、母、息長水依比売(オキナガノミズヨリヒメノ命)の間に生まれた子。
息子の父親、日子坐王は、
うちと一緒に度会大国玉比賣神社に祀られている大国玉命のことどす。
岐阜の人と入れ替わってますけど、伊勢の人どす。 日子坐王いうんは、
一志ごおりの猿田彦さんのことどす。
美知能宇斯王(ミチノウシ王)のミチは、
道はやふる、の道にかけてますんどす。
ウシはもちろん、牛氏から来てます。 猿田彦さんは、
本来は日(火)の神どすさかい、
いつはやふる(厳はやふる)が本名どすけど、
道づくりが趣味で、水陸両方の道を造成するさかい、
地はやふる、水はやふる、と、
うちと一心同体の名を名乗ってますんどす。 大昔は、道は主に水路を使うてましたさかい、
船は重要な輸送手段どしたんどす。 同じく和邇氏の女(むすめ)で、
宇那比姫(うなひひめ)いうのも、うちのことどす。
卑弥呼モード、つまり日置氏のうちのことどす。 伊勢神宮の斎宮ておますでしょ。
今の三重県多気郡明和町にあるあの斎宮の場所は、
地図をごらんいただくとわかりますけど、
一志ごおりの△△城と、多気ごおりの佐那や相可(おうか)のちょうど中間地点にありますんどす。 あれが卑弥呼の邪馬台国どす。
多気ごおりの舟木氏と、
一志ごおりの出口氏の都を、今の斎宮のある場所に造営するプランがおましたんどす。
日置とは、舟木と出口の共同モードみたいなもんどす。 道て「とう」とも読みますやろ。
あれは、ヘブライ文字のタウに由来してますのえ。
道は十文字に交わるさかい、タウからトウになりましたんどす。
せやさかい、道路の造成は、タウの象徴するダン族の仕事になってますんどす。 ヘブライ文字 22 番目のタウは、1 番目のアレフとも互換やさかい、
みちはやふるは、いちはやふる、とも言うんどす。 >>860-861
つまり、
多気郡明和町の斎宮と△△城、
それに舟木氏の拠点があったと思われる多気ごおりの相可から佐那のあたり。
この 3 点を結ぶと、大体正三角形に近い三角形ができるんどす。 斎宮は広おますさかい、
Google 地図に「古里公園」とある「園」の字を一応の斎宮の地点にして距離を測ってみると、
斎宮(三重県多気郡明和町) 〜 △△城 10.05 km
△△城 〜 相鹿上神社(三重県多気町相可) 10.10 q
佐那駅 〜 斎宮古里公園 9.81 q
舟木氏が拠点にしていたと思われる相可から佐那のあたりというのも、
斎宮と同じかそれ以上にあいまいな言い方で、
実際は広い範囲にまたがっているので、
正確には測れませんけど。 それでも、さっくり言うて、
一志ごおりの△△城
多気ごおりの相鹿上神社、佐那神社
斎宮
この 3 つの地点は一辺がほぼ 10 q、
三辺の和が大体 30 〜 33 q になる、
正三角形に近い形を形成しとるんどす。 >>151
和邇氏は水軍担当の軍事氏族という説もあるぞ。 >>867
和邇氏 = 王仁氏 = オージンス○ノ氏(物部氏) = 牛(宇志)氏 = ウ○トコ氏 = 牛の土蜘蛛 = 牛鬼 ≒ 九鬼
九鬼水郡を率いた九鬼氏も、遡れば物部ス○ノ氏(王仁氏)に繋がるからではないでしょうか。
これらは日本海側京都の丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)や阿波の天日鷲の系統ともつながります。 和邇氏は物部氏を構成する氏族なのですから、
軍事的色彩が強いのは当然だし、
そもそも舟木氏を上書きしているのだから、
水軍担当ということになるでしょう。 天理市にある石上神宮の近くを流れる布留川、
この付近を拠点にしていたのが和邇氏でしょう。
そして、石上神宮の周囲にはス○ノ姓と出口姓が多い。
伊勢一志ごおりのフル川水神と布留川との関係も謎。 >>868
訂正
九鬼水郡を率いた九鬼氏
↓
九鬼水軍を率いた九鬼氏 土岐 頼尚(とき よりなお)とは、
陽成源氏(摂津源氏)流土岐氏(美濃源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。
舟木頼尚 : 舟木頼重(頼直/頼真)の曾孫、頼春(頼玄/頼員)の孫、
頼夏の子、政尚の父、政頼の祖父、光俊の曾
祖父。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)[1]は、その後裔である。
明智頼尚 : 明智頼重(頼助)[2]の8世の孫、
頼篤の7世の孫、国篤の6世の孫、頼秋の玄孫、頼秀の曾孫、
頼弘の孫、頼定の子、頼典(よりなお、光継)・頼明の父。
(出典: http://ja.japan.wikia.com/wiki/) 尊卑分脈によると
頼光七世孫土岐五郎光行---頼貞(隠岐孫二郎、土岐惣領)、
弟頼重(号船木、隠岐孫三郎、右衛門蔵人、從五位下、右近将監、母定親に同じ)
(出典: http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373162096.html)
土岐光行の子、土岐頼貞の弟であった頼重が「船木」を号すとある。
但し、この文書の原典と思われる塙保己一編『続群書類従 5下(系図部)』には、
「渡會郡山田住人書之(中略)以其素右系?因左馬介光春嫡男正光之命。」と書かれている。 この明智系図(http://blog.sasakitoru.com/201312/article_1.html、
美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜というブログより)
に見える土岐頼貞は、
>874 の船木系図にある頼貞(隠岐孫二郎、土岐惣領)と同一人物でしょう。
Wikipedia には、
土岐頼貞(1271 〜 1339 年)、兄弟に舟木頼重とあります。
つまり、土岐頼貞の弟、土岐頼重イコール船木頼重ということ。 しかるに、明智系図に登場する
>伯耆九郎頼基・十郎頼兼・弥十郎頼明らは頼貞の正妻北条氏の子であり、
>東美濃の明智長山城の明智を名乗った。
土岐頼貞の息子たちが、東美濃の明智長山城の明智ということは、
頼貞の弟である船木頼重(船木の祖)と、明智長山城の明智とは叔父甥の関係であり、
船木頼重にとって、東美濃の明智は本家にあたるということです。 船木頼重と同じ「頼重」という名を持つ人物は明智氏にもいます。
明智頼重(1342 〜 1423 年)
明智 頼重(あけち よりしげ)は、南北朝時代から室町時代の武将。
美濃国可児郡明智城主。
美濃守護土岐頼貞の九男長山頼基の子。土岐氏支流の明智氏の祖、あるいは二代目とされる。
(Wiki より) 明智系図(>>875)にある明智頼基の子、ということは、
土岐頼貞の弟である船木頼重にとって、明智頼重は甥の子どもにあたる。
本能寺の変を起こした明智光秀の祖である明智頼重にとって、
船木頼重は大叔父にあたるということになります。
甥の明智頼重(別名明智彦九郎)が、明智光秀の直接の祖になるようです。 >頼清・頼遠は活躍し父頼貞は美濃守護に補任された。
土岐頼貞は、子らの活躍により、美濃守護に任じられた。 旧高松城跡
境内はかつて高松城(別名:喜岡城、以下同上)の本丸であった。
喜岡城は1335年(建武2年)に建武の新政で功をあげて讃岐守護となった舟木頼重(後に地名をとって高松頼重と
名乗る)が築城するも、同年11月26日に足利尊氏の臣下、細川定禅らの軍勢によって落城する。しかし、頼重は生
き延び、子孫の高松頼邑によって城は再建。(Wiki「喜岡寺」の項より)
美濃国初代守護、土岐頼貞の弟にあたる舟木頼重が、
讃岐守護となった高松頼重であるということです。 >元弘元年(1331)に始まる元弘の変で鎌倉幕府が滅亡すると、
頼兼の兄伯耆九郎頼基の子頼重(高松三郎頼重)が建武新政のもと讃岐守護になった。<
頼基の子の、頼重は、明智頼重ですので、これは間違いかと思われます。
明智頼重は美濃可児郡明智城主です。 明智頼重
美濃守護土岐頼貞の九男長山頼基の子。美濃国可児郡明智城主。
(Wiki より)
>頼基の子頼重(高松三郎頼重)が建武新政のもと讃岐守護になった。
この 2 人は同じ明智頼重を指していますが、おかしいです。 >>882 は、
土岐頼貞の弟である土岐頼重(船木頼重)と、
土岐頼貞の息子の子(つまり孫)である土岐頼重(明智頼重)を混同しています。 >>874 の舟木氏系図では、
この讃岐守護となった船木頼重の子が頼春、頼春の弟頼重の子がまた頼春で、
その子が頼夏となっている。
この頼夏が、美濃から伊勢へやって来た船木氏の初代(と思われる)船木頼尚の父親です。
>正平 8 年舟木頼夏(土岐一族)は子の頼尚を官軍につけさせた。頼尚は子とともに伊勢に入った。
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