【ダーリン】宇宙人の秘密基地【ジョセフィーヌ】
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そんなに広い範囲じゃなかった。 一志ごおりといっても、実質的には、 おそらくは出雲の大田(>>56 )から下関、伊賀を経由して伊勢へ来て、 一志ごおりの東端で城を共有していた(測量士を含め)2 〜 3 家だけでした。 テレビで放映されて有名になった北緯 34 度 32 分のレイラインは、 東端が伊勢の斎宮、西橋が淡路の伊勢久留麻神社、舟木石上神社です。 伊勢久留麻の久留麻はたぶん日車のこと。 ここでも舟木の名前は出されているのに対し、出口の名は直接には出されていない。 出口は名前のない者の暗喩なのです。 北緯 34 度 35 分は何を意味するのか。 東端が舟木(出口)、日置の城、西橋が奈良県天理市の石上神宮です。 矛盾する 2 つの概念を体現する人間の実在とはすなわち、 2 人のスサノオが同一人物として実在したことを意味します。 コンパス(船の羅針盤) − ○ 定規(測量) − △ 口 − □ 伊勢の神宮で猿田彦を祀る神官家、 宇○土公氏は「う○のつちぎみ」とも読むのだけど、 これには「牛の土蜘蛛」、つまり牛鬼、牛頭という意味を持たせているのでしょうね。 牛鬼は椿の根っこの化け物と言われているので、 猿田彦は椿神社にも祀られている。 http://www.genbu.net/data/ise/tubakioo_title.htm 土公神陵もあるし、 レイライン西端、淡路島舟木石神座のミニチュアみたいな御船磐座もある。 百済から渡来したと思われる宇志氏が、何と土蜘蛛=スサノオのコードを使用しておられる。 と言うか、もしかしたら、 スサノオ=土蜘蛛のコードは元々、渡来人が創作したものだった可能性すらあります。 しかし、 仮初めにも天皇家の祖神を祀るとされる伊勢の神宮の神官が、土蜘蛛を名乗っていたとは。 牛は、五行の中では「土」と相生する。 土用のうしの日にうなぎを食べる説はこのことに由来するかと。 初天皇爲太子、行于越国、拜祭角鹿笥飯大神。 時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。 太子となった応神天皇が越国へ行き、 角鹿の笥飯大神(ケヒノオオカミ)を奉祭したとき互いに名前を交換した。 大神は來紗別神(イザサワケノカミ)という名になり、太子の名は譽田別尊(ホムタワケノミコト)となった。 (『日本書紀巻第十譽田天皇應神天皇』) この角鹿の笥飯(けひ)というのは、>>35-36 の 越國笥飯浦(けひうら)、故號其處曰角鹿(つるが)也。 と同じ地名ですよね。 敦賀の氣比神宮の近くには「土公(どこう)」という「八角形」の土の塚があり、 猿田彦神社もあるそうです。 (出典: http://blog.livedoor.jp/omtakebe/archives/38339408.html ) >現「土公」は気比之大神降臨の地であり、 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、またの名を曰于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)と 伊都々比古(イツツヒコ)が名前を交換したとも考えられます。 >>35-36 意富加羅國の王子で、 名を都怒我阿羅斯等(角がある人)、 またの名を曰于斯岐阿利叱智于岐(牛でありちき)みたいな名前の人が、う○とこ氏、ス○ノ氏の祖と思われる。 応神天皇の名前交換については、 https://2ch.vet/re_toro_occult_1495709514_646_100 728 〜 あたりに書きました。 上に引用したスレの 733、 >この越国角鹿の笥飯大神(= イザサワケ)を、 勢州阿射加の Itzhak (Isaac or Isaak, transliterated from as Itzhak or Yitzhak, or Yitzchok) と置き換えて考えてみる。< 越国の気比で 2 人が出会っているので、これは必要なかったです。 正直もう何が何だかわかりませんが。 敦賀の気比之大神、つまり 都怒我阿羅斯等(角がある人)or 曰于斯岐阿利叱智于岐(牛である人)は、 降臨したとき、つまり外国からやって来たときから、 元の名が來紗別(イザサワケ)だったと日本書紀には記されていることになります。 醜い人が善行を行っても醜い善人にしかなりません。 ですので、醜い善人というのはしばしば存在します。 しかしながら、美しく聡明な悪人というのはいません。 それは白い黒馬のようなものなのです。 善悪とは、立場の違いによって変化するものではありません。 それは、昨年の大河ドラマでは善き人たちに描かれた氏族が、 今年の大河では悪(あ)しざまに描かれるといった性質のものではないのです。 >>80-81 これは他人様のこと言ってませんのよ。 A と D のことですのよ。 2 人とも、醜い善人になったり、不細工な悪魔になったりしてる、どうしようもない人間ですのよ。 物部氏なんていないのよ。 度会氏もそうだけど。 ならの石上神宮の周辺には、 ○口氏と○野氏しかいない。 西端には○口氏と○野氏、東端には○口氏と○木氏がいる。 宇○○公氏は二見氏と呼ばれていたとあるから、元は二見の人で、 二見の○口ヴィレッジを構成してたんじゃないの。 何かの事情で村を解散して、名前変えたんでしょう。 阿射加とは何の関係もないのよ、宇○○公氏も○野氏も。阿射加に○野氏なんていないし。 阿射加の大地主は○口氏なのよ。 宇○○公氏も○野氏も、当地で勢力をもっていた痕跡はない。 ○口氏が○野氏の一族だったら、阿射加に○野氏の痕跡がもう少し残っててもいいんじゃないの。 だったら、伊勢の神宮ならびに、ならの石上神宮の周辺に集住している○野氏と○口氏とは。 あと、長野から全国へ散らばった、出口はやお、みたいな名前の人は何なんだろうという話なのよ。 北緯 34 度 32 分のレイライン 東端 − 斎宮、○口氏と○野氏が集住。 西端 − 伊勢久留麻神社と舟木石上神社。 北緯 34 度 35 分 東端 − ○口氏と○木氏が共有した城。 西端 − 石上神宮、○口氏と○野氏が集住。 万葉集では、「出」という字は「山上復山有(やまのうえにまたやまあり)」と隠語で書かれてる。 これはつまり「いつく、いづく」は忌み字で避けられていたことを意味する。 一般人には触ることのできない文字だったのよ。 ここだって出鱈目ではなくて、 客観的に検証しようとすれば検証可能なことを書いてますのよ。 だからこそ、嘘と妄想だけの人たちに攻撃されてますのよ。 >>90 > 東端 − ○口氏と○木氏が共有した城。 この城跡のすぐ近く、 ○木家と○口家の中間辺りに、 ○○水神の遥拝所というのがある。 漬け物石くらいの石が置かれているだけで、社も何もない。 神社ができる前の原初の信仰形態は、 この石に向かって遠くの川を拝む素朴なものだったのかなと思う。 で、この○○水神の川の名前が、 西端の石上神宮の近くにある川と同じ名前なのです。 この付近にそんな名前の川はないのですよ。 雲出川の古名のようです。 >>93 漬け物石くらいじゃなかった。漬け物の樽(たる)くらいの大きさだって。 石には「山神」という文字が彫られていて、6 〜 8 畳くらいのスペースに置かれている。 それがフル川水神遥拝所。 不思議なことに、 この付近にはフル川という名前の川はない。 雲出川のことを雲出古川ともいうらしいので、たぶんこのフル川は雲出川のこと。 ちなみに、 雲出川というのはわりと新しい名前で、昔は上流は「いえきがわ」(漢字は家城川)と呼ばれていたとある。 上流は美杉村の日置の里のほうなので、「ひおきがわ」の語頭の h が取れて、 「いおきがわ」→「いえきがわ」になったとも考えられる。 阿射加からこの集落へ至る、東西に伸びた真っ直ぐな道には、 このフル川水神の石と同じ石、つまり、 「山神」と彫られた一抱えくらいの石がすべて東向きに規則正しく置かれてるんだって。 山神と彫られた石が規則正しく、多くは 2 つペアで、すべて東を目指すようにして配置されていた。 その最終地点がフル川水神遥拝所で、そこ以東に石はなかった。 山神とは阿射加の山の神、 フル川のフルは荒ぶる神の「ぶる(ふる)」であるとすることは、暴論ではありますまい。 >>64 、>>90 東端の目印となる地点は、実は城ではなく、この水神遥拝所だったかもしれない。 フルとは辰のことであるというのをどこかで読んだことがあります(振という字は手編に辰と書く)。 水神なのになぜ山神? 竜神だからでしょう。 問題は、 このフル川水神遥拝所と阿射加山頂を結ぶ北緯 34 度 35 分線の西端に何故、 ならの石上神宮があるかでしょう。 当然、どちらかがどちらかに合わせて北緯 34 度 35 分に揃えたのですよね。 で、阿射加の荒ぶる神が暴れていた阿射加山、 この阿射加山というのは正確には桝形山(ますがたやま)という山です。 (Google 地図では桝形山は存在せず、堀坂山(ほっさかさん)という地点に飛ばされてしまう。 堀坂山は有名な北緯 34 度 32 分線上に大日如来だか何だかの仏像がある山ですので、 ここでは関係ありません)。 桝形山の山頂が、なら天理市の石上神宮に合わせてできたのか、 石上神宮が、桝形山の山頂〜フル川水神の線に合わせたのか、 どちらだと思いますか? 石上神宮の物部氏は日神ニギハヤヒの裔を称し、 現天皇家よりも前にこの国を支配していた王朝の樹立者ともされているようです。 このアイデンティティの根拠は何なのでしょうか。 >>64 、>>90 http://www.yukanmie.com/news/4512/ みぬ田神社には「獅子塚」という塚があるのだとか。 獅子と呼ばれた王の墓である可能性もあると思います。 >>107 はアンカーが正しくありませんでした。 >>53 の敏太神社(※三天王社)です。 まぁ、ならの石上神宮と伊勢の神宮の神官家はルーツが同じですので(牛氏)、 すべては彼等の自演という可能性もあります。 まず、桝形山の山頂に揃えて石上神宮を建て、 記紀や風土記といった記録を編纂し、山神の石を配置していったのかもしれない。 その場合は、○木氏や○口氏だけでなく集落の人たちも皆、神官家の工作員です。 しかし、仮にそうだとするなら、 両神官家がそこまでやらなくてはならない事情とは何なのかを、考える必要に迫られる。 しかるに、工作員疑惑のある氏族、 ○木氏と○口氏は、工作員にしては家としてのスケールが大きい。 領有していたと思われる土地も広い。 ○口氏は、自分が立ち退いた跡、城の跡地に、 石屋(石工)、大工(木工大工)、鍛冶屋、棒屋といった職能者を住まわせていた。 これらの人たちとは大昔からの付き合いだったらしい。 大体、うちが牛氏だったら、 うちが伊勢神宮の神官になってるでしょう。 それが、いしごおりの東端で、とどまってるわけですよ。 フル川水神の山神石は、その最終地点の目印。 これより東には山神の石はない。 >>111 だから、うちが宇○○公氏の一族だったら、 宇○○公氏は堂々と、阿射加で猿田彦を祀っていた氏族だと名乗るでしょう。 自宅の庭で猿田彦をひっそりと祀っていたことから、神宮で猿田彦を担当しているというのは合点がいきません。 >城の跡地に、石屋(石工)、大工(木工大工)、鍛冶屋、棒屋といった職能者を住まわせていた。 ここまで凝ったことを工作員がやるでしょうか。 伊勢の神宮、ならの石上神宮、長野の諏訪大社が、 阿射加の荒ぶる神を祀っていることはわかった。 熊野出速雄神社 http://www.genbu.net/data/sinano/minakami_title.htm >皆神山は古代の神々が造った宇宙船の基地なのだ 境内には天地カゴメ之宮というのもあるそうです。 >小丸山古墳は、第三十四代舒明天皇の第三皇子古人大兄皇子、又は出速雄命の御墓所と伝えられるものだが 古人大兄皇子、または出速雄の墓なのね。 http://www.katuobushi.com/jingu.html >古くは、伊勢神宮外宮の禰宜家である出口家が執り行っていた様で、 現在も名乗りに使う提灯には「出口御山神」の名が記されています。< ジョセフィーヌは怒りました。 すみません、 フル川水神遥拝所の位置を勘違いしていました。 正しくは、○木家と○口家の間ではなく、 城跡の南端からさらに南へ 200 メートルほどきところでした。 北緯は 34°35′39″で、それほど変わりません。 【訂正】 ×ほどきところ ○ほどのところ >>117 の写真は、城跡のすぐ横です。 ○口家旧宅の西北角に小さなお堂があり、 この写真の山ノ神二基はそのすぐ向かい側。 これが阿坂から東進してきた山ノ神石の最後の石で、 これより東には山ノ神はないとのこと。 >怒ったゾウ めっちゃかわいいw みんながそれぞれの見地から真実に辿り着くことを祈ってる 俺に出来ることはそれくらいしかない 耳ホジホジ情報 竜宮城の財宝 ヒント 日本海側の陸の中 ヒント 大きな稲荷神社 ヒント デブ女の実家の直ぐ近く ヒント 涛ネ木の雷電神社bフ神様が知ってb 本でも緒o版したらどうbゥね? 以緒 耳ホジホジ情報でした >>122 他にも勘違いしていることがあるかもしれません。 >>123 の場所より東に同様の山ノ神石があったとか、向きが違うとか、 ご存じの方がいらっしゃいましたら、ここでご指摘をお願いします。 >>117 、>>123 > >>117 の写真は、城跡のすぐ横です。 > ○口家旧宅の西北角に小さなお堂があり、 > この写真の山ノ神二基はそのすぐ向かい側。 >>117 の写真の山ノ神石は、 昔は城の敷地の西北角にお堂と一緒に並べてあったそうです。 山ノ神石だけ道路の向かい側へ移動して、おそらく向きも変えられていると思われます。 下がその城の西北角の写真。お堂の隣に >>117 の山ノ神二基があった。 http://network2010.org/contents/files/kaido/isekaido/518_ise_matsuzaka_02_18.jpg これが、この地域の山ノ神石の基本形みたい。 1 つがお堂に入っていて、その横に 2 つの石が並んでいる。 http://network2010.org/contents/files/kaido/isekaido/518_ise_matsuzaka_02_15.jpg ただし、上の写真も場所が変わっているそうです。 お堂も山ノ神二基も、前の道路を隔てて反対側にあったって。 フル川水神遥拝所のある土地は、 戦前まで○口家の所有であった可能性が高いそうです。 十中八九、うちの土地。 もしそうでなければ、元城主の○村さんの土地だったと。 戦前までの両家の所有地の形が大体そういう形だったらしいです。 ちなみに戦前の話ですが、元城主の○村さんとうちとは子ども同士の年が近くて、よくお互いの家で一緒に遊んだって。 こんな風に、子どもの頃から友だちだった者同士が協力し合って村落を守っていたのかなと思います。 神代から平成の世に至るまで、この土地で、お互いケンカもせずに一緒に住んできた○木家と○口家。 身内のことながら、いい話よね。 >>130 >この土地で この土地で、じゃなかったわね。 阿坂○口と嬉野の○木さんがこの地で合流したわけだし、 その前はたぶん出雲にいたと考えてますから。 オカルト板を荒らしている外国人およびその組織のことと、 南北朝鮮へのヘイトは分けて考えたほうがいいのかもしれない。 掲示板荒らしの人たちへの怒りから、つい特定の外国を批判するようなことを言ってしまうけど、 それではやはり癒されない。 出口家は本性的にとてもリベラルなのよ。 士族出のおばあちゃんが、被○○○落の小作人たちに頭を下げて、お礼を言っていたことからもわかるけど、 そういった人たちに何の偏見も差別意識もなかった。 当該の地域には、神代からの仲間であり、開拓の労働の実際の担い手であった先住民だけでなく、 秀吉に連れて来られた外国人も混じっていたのかもしれないけれど。 知る限りでは、曾祖父も曾祖母も、そういった人たちに何の差別もせず、偏見ももたず、朗らかに接していた。 なので、ユンファは、朝鮮部落の神様と呼ばれているのかもしれないけど。 差別や偏見はいけないことだからしないというのではなく、 本当に差別や偏見という感覚がどういうものかわからない、本来そういう感じ。 それは、ジョセフィーヌが嫉妬という感情ヤ感覚がどういうものかわからないのと同じなんでしょうね。 >>135-136 わたしたちは、そういった人たちに対する差別意識や偏見はありません、という感じの臭さがまったくない。 曾祖父母は本当に朗らかでリベラルな人たちだったのよ。 まぁ、ミルクがなければヤギを飼えばいいじゃない、みたいな無邪気さに腹立つ人もいるんでしょうね。 無邪気じゃなくて能天気と言いますね、こういうのは。 差別意識や偏見がなかったと言っても、 婚姻や養子縁組などはちゃんと相手を選んでいたわけで、 そういう意味では、理想主義的といっても表面だけかも。 何にしても、堕落と衰退の一途をたどってきたことは確かです。 >>70 出雲建子 ≒ 出雲古根 牛鬼は椿の古根の化け物。 牛の土蜘蛛、牛鬼を称する氏族が椿を祀るのはこのためか。 【訂正】 ×出雲建子 ≒ 出雲古根 ○出雲建子 ≒ 出雲振根(フルネ) 大阪の地震は発生から約10時間後に 正確な情報を得ていた 奈良のチョメチョメ アヌンナキホルス神様は伊勢神宮に行って来た ばかりなので神通力が上がってる状態なので 確認出来ました 地球に居ます 徳川家康様が呼んでますね もう少し様子を見てから行くでしょう 以上質問に対する答えです あなたって一日中、何か日本語らしき文字列を羅列してるけど、 他にすることないの?それが職業なの? 嫌われ者のカイザー様 案件1 拉致被害者の正確な情報を知りたい 案件2 ハワイがとんでもなく大噴火する件に関して貴方の力で何とかならない? (和邇氏の)出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説がある[1]。 − Wiki「和珥氏」の項より − [1] の脚注にある『日本古代王権形成史論』(山尾幸久著)に対する書評が次の pdf. で読めます。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalha1951/1984/34/1984_34_162/_pdf/-char/ja 原本を読んでいなくて申し訳ないのですが、 上の pdf. によれば、次の 2 点がこの本の主張するところの前提として挙げられる。 ・和爾一族が三世紀以前に裏日本敦賀付近からヤマトへ進出したこと(これについては、>>75-79 を参照)。 ・ヒメコの創始にかかる新宗教が、朝鮮から渡來したとされる和爾氏の前身集団のもたらした文化複合に基因すること。 敦賀付近から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団であり、 卑弥呼創始の宗教の土壌となった文化複合を形成していた氏族が、 朝鮮から渡来した和邇氏であるとする、 この著者の主張は、目の付けどころとしてはシャープだと思います。 ただし、この著者の考察には、2 人のオージン、 すなわち応神と応仁の存在という視点が欠けています。 したがって、結果として、他ならぬ和邇氏の所期の目的どおりの結論に導かれている。 【訂正】 >>153 ×応神と応仁 ○応神と王仁 >>154 ×和邇(応仁)氏 ○和邇(王仁)氏 応神と王仁がいる以上、 出口氏が 2 種類いるのは当然なのよ。 まぁ、それが、 D と A という、2 人の出口が抱える根底的な困難であると言えるでしょう。 >>156 2 種類っていうか、デュアル、二重になってるのよ。 >>70-74 綾部の殿様で水軍を率いた氏族の名字は○鬼。 キュウキとギュウキで、同族。 ポアの反対 アポを 連続して大瀬戸シンヤがいってた。 宮本も。 それはなんで? 学生時代。 オウム事件の裏は 上田卓三だということ。 身内が身内を告発しろ。 本物のしんせきが参加するだの 言わせたし覚えとるんでインチキやめろ。 企画する以前にバレバレ。 ちゃんと慰謝料を私以外にも払えよ。 部落解放運動指導者を追放しろ。 私がやったほうがいい。 調子がでないから頭悪そうにみえるだけだ。 創価学会のせいになんでもするな。 母親が創価学会の親戚が悪いとか 言うていたのは小森ゆきえや又市のためでは? 創価学会支配するために。 親も似非同和行為に参加してる。 あの怒鳴ってた時 何回入院してたか。 情報が少なかった。 理不尽だ! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる