【ダーリン】宇宙人の秘密基地【ジョセフィーヌ】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
ヨセフの妻は、 ヨセフの元を去って、 ヨセフの元へ走り、 ヨセフの子を産んで、 そのことをヨセフに知らせます。 それが聖母子像です。 まだよく解らないが スサノオの話は アポロンにマルスが背乗りしたように思える そしてそれに連れられたスキタイ系(朝鮮?)が神官なども背乗りする(名前を奪った) と解釈できるような これはイスラエルがアシュケナージに背乗りされている構造と同じような 朝鮮人レプテリアン、スサノオを語る上で、背乗りなどという三次元的概念は役に立ちません。 それから、申し訳ありませんが、>>9 は取り消します。 わたしは、議論しにきているのではありませんので。 2014/09/18(木) 13:59:13. Le Portrait a un sens comme ca. Le Portrait a un sens comme ca. それが聖母子像です。 第一宇宙行きの最初の問題が出ましたね 地球規模の食料不足が発生するとの事ですが、皆様戦争反対と言うに決まってる。 戦争で人口を5億に減らす、30億に減らすのは 問題があります。アメリカや中国の地下水も無くなりますが、やはり宇宙から輸入するしか 方法はありません。 マトリックス X"(エックス奪取)には虫食い穴が空いてるのよ。 その虫食い穴から、マトリックス X が出て来ちゃう。 だから、マトリックス X"(エックス奪取)の中で、 本物だ偽ものだと言い争っても無意味だって、 前から言ってるはず。 マトリックスを奪取できるだけでも大したものなのよ。 さすが、イルミナ。 でも、ゼウス家はさらにその上を行ってるのよ。 奪われたマトリックスを食い破って、そこから出て来ちゃう。 マトリックス X" とマトリックス X は同じものなのよ。 ただ、エックス奪取のぼうは何か変なのよ、 稚拙といってもいいし、邪悪ともいえる。 虫食い穴から出て来ちゃう、 オリジンの X というのは、X"(ダッシュ)の中での「本物」じゃないのよ。 一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也。 問之曰「何國人也。」對曰「意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。 傳聞日本國有聖皇、以歸化之。 到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』 然、臣究見其爲人、必知非王也、?更還之。 『日本書紀巻六垂仁天皇紀』 【現代語訳】 一書によると、御間城天皇の代、額に角のある人が船に乗り、 越國の笥飯浦(けひうら)に泊まった。それ故、其処を角鹿(つるが)という。 「どこの国の人か」と尋ねると、意富加羅國の王子で、名を都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、 またの名を曰于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)という。 日本国に聖王がいると伝聞して、ここに帰化した。 穴門(あなと)に到着したとき、その国の人で伊都々比古(イツツヒコ)という人が、 「我がこの国の王だ。我を除いて他に王はいない。だから、よそへ行くな。」と言った。 家来がその人を見究めて、王に非ずと言った。 右杣山地等,元船木連宇麻呂、鼠緒、弓手等遠祖大田田命兒神田 田命等,所領九萬八千餘町也。而 氣長足? ( 神功 ) 皇后御宇世, 所奉寄於大明神已了。 (『住吉大社神代記』) 【現代語訳】 椅鹿杣山は九萬八千餘町に及ぶ広大な土地で、船木連の所領だっ たが、 船木宇麻呂・ 同鼠緒・同弓手らが神功皇后の時代に住吉大 社へ寄進した。 右杣山地等,元船木連宇麻呂、鼠緒、弓手等遠祖大田田命兒神田田命等, 所領九萬八千餘町也。而 氣長足? ( 神功 ) 皇后御宇世,所奉寄於大明神已了。 (『住吉大社神代記』) 【現代語訳】 椅鹿杣山は九萬八千餘町に及ぶ広大な土地で、船木連の所領だったが、 船木宇麻呂・ 同鼠緒・同弓手らが神功皇后の時代に住吉大社へ寄進した。 于時,猿田?神裔-宇治土公祖-大田命參相支.「汝國名何」問給爾, 「佐古久志呂宇遲之國.」止白弖,御止代神田進支 (『倭姫命世記』) 【現代語訳】 その時、猿田彦神の裔、宇治土公の祖の大田命が現はれ参上したので、 「汝が国の名は何そ」と問ふと、「さこくしろ宇遅の国」と申し上げ、 御止代の神田を進った。 大胆な推測ですが、 『住吉大社神代記』も、『倭姫命世記』も、 書いた人は同じです。 >>40 書いた人が同じなのではなくて、同じ側の人が書いた。 船木氏が住吉大社に土地を寄進したことと、 宇治土公氏が皇大神宮の土地を提供したこと、 この 2 つが重ね合わされている。 さらに言えば、重要なのは、 船木氏が住吉大社に土地を寄進したことではなく、 宇治土公氏が神宮に土地を提供したことであり、 『住吉大社神代記』に書かれた「伊西の船木に坐す伊瀬川比古乃命(いせつひこのみこと)とは、 宇治土公氏のことであるという暗喩になっている。 そして、それはおそらく事実なのです。 十四年乙巳秋九月一日。遷幸于伊勢国桑名野代宮。 四年奉斎。次鈴鹿奈具波志忍山爾。神宮造奉天。 六箇月奉斎。于時。国造大若子命 。一名大幡。参相御共仕奉。 (『倭姫命世記』) 【現代語訳】 十四年[乙巳]、伊勢国桑名野代宮くはなのしろ のみやに遷幸して、四年間奉斎。 この時、国造大若子命〔一名大幡主命〕が現はれ参上して御共に仕へ奉ったので、 国内の風俗を奏上させた。 桑名野代宮(現三重県桑名市)で急に出現して、 倭姫のガイド役となる度会氏の祖、大若子。 これは記紀における天孫降臨の場面でいきなり登場し、 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の案内役となる猿田彦と重ね合わされてる。 度会氏(出口氏)が猿田彦だって言っちゃってるわけですよ。 >>35 伊都々比古(イツツヒコ)が五十猛と同神というのはほぼ確実でしょう。 五十猛は造船、船材の神で、射楯神(いたてのかみ)とも呼ばれる(Wiki による)。 スサノオの子で、スサノオと一緒に新羅へ行った。 諏訪大神社(神奈川県横須賀市)の由緒 健御名方命は、山神で狩猟と経済によって山を生活の場とした部族 の祖神であったが、後にこの部族の経済的発展に伴って農耕の神 ともされた。 元来、山神で狩猟において射的の上手な部族の神だったので、後 に武士からも崇敬された。もと出雲の国から周防(山口県)に行き、 伊勢から美濃を経て信濃に入り、蝦夷の牙城をおとして諏訪の神と なった。 (神奈川県神社庁のホームページより) 諏訪大神社(神奈川県横須賀市)の由緒 健御名方命は、山神で狩猟と経済によって山を生活の場とした部族の祖神であったが、 後にこの部族の経済的発展に伴って農耕の神ともされた。 元来、山神で狩猟において射的の上手な部族の神だったので、後に武士からも崇敬された。 もと出雲の国から周防(山口県)に行き、 伊勢から美濃を経て信濃に入り、蝦夷の牙城をおとして諏訪の神となった。 (神奈川県神社庁のホームページより) >もと出雲の国から周防(山口県)に行き、伊勢から美濃を経て信濃に入り、 下関の穴門の伊都々比古が 伊賀の穴師の伊勢津彦とイコールであることは、ほぼ確実でしょう。 スサノオと五十猛は新羅へ行ったとされているが、 これはただ行っただけであって、この 2 人が新羅の人というわけではない。 が、なぜかスサノオ=出雲の先住民=新羅系という定説の礎になっていると思われます。 一方、怒我阿羅斯等またの名を曰于斯岐阿利叱智于岐(>>36 )は、 ウシキアリシチカンキという名前から宇治土公氏(菅野氏)と同系統と考えられる。 菅野氏宇治土公氏度会氏は物部忌部、 天日鷲と同系統で百済系だと考えています。 これが現天皇家の系統。 五十猛は神社 http://www.genbu.net/data/iwami/itakeru_title.htm 祭神は五十猛命と應神天皇。 島根県大田市にある。 船木氏の祖は大田命、五十猛は浮舟の神様。 で、「新羅系」。 阿坂城址 34°35′ 37 阿射加神社(大阿坂町) 34°35′54 阿射加神社(小阿坂町) 34°35′27 出口集会所(字出口のセンター?) 34°35′14″ 敏太神社(※三天王社) 34°35′9″ 舟木(中村)城(旧出口家) 34°35′47″ 松ヶ崎城(日置城) 34° 36′1″ ※三天王社 敏太神社の境内社で、八田天王、上出口天王、石上天王の三天王を祀る。 これを見る限り、 阿射加の悪神が物部菅野氏であることは、ほぼ確実なようです。 >>52 この近辺には、○木氏と○口氏が集住している。 >>41-43 要するに、神官家は、自分たちが、 舟木と出口だと言いたいわけ。 そして、それはおそらく本当なのです。 一志ごおりの○木と○口は quite probably 伊勢の神官家の系統です。 伊豆速布留の布留は石上神宮と関係がある。 つまり物部忌部菅野です。 しかし、 われわれは同時に、伊勢津彦イコール伊都々比古であり、 理屈を敷衍すればスサノオ=猿田彦でもある。 これは間違いないと思います。 と言うことは、 と言うことは、 一志ごおりの両氏は先住民でありながら征服側でもある。 征服民と被征服民を同時に体現している実在の人間であるということです。 記紀や各地の風土記または伝承の矛盾をついて、おかしいと思っても、おかしいなで済みます。 しかし、実在の家や人間が、対極する 2 つの概念を内包するというのは実際あり得ません。 同じ一つの神や存在が異なる名前で呼ばれていたり、 矛盾する 2 つの属性をもっていたりすることは、神話や伝承においてはあり得ます。 が、 矛盾する 2 つの属性を体現する生きた人間や家というのはあり得ない、です。 一志ごおりの舟木と出口、そして日置は、存在するはずのない氏族なのです。 そんなに広い範囲じゃなかった。 一志ごおりといっても、実質的には、 おそらくは出雲の大田(>>56 )から下関、伊賀を経由して伊勢へ来て、 一志ごおりの東端で城を共有していた(測量士を含め)2 〜 3 家だけでした。 テレビで放映されて有名になった北緯 34 度 32 分のレイラインは、 東端が伊勢の斎宮、西橋が淡路の伊勢久留麻神社、舟木石上神社です。 伊勢久留麻の久留麻はたぶん日車のこと。 ここでも舟木の名前は出されているのに対し、出口の名は直接には出されていない。 出口は名前のない者の暗喩なのです。 北緯 34 度 35 分は何を意味するのか。 東端が舟木(出口)、日置の城、西橋が奈良県天理市の石上神宮です。 矛盾する 2 つの概念を体現する人間の実在とはすなわち、 2 人のスサノオが同一人物として実在したことを意味します。 コンパス(船の羅針盤) − ○ 定規(測量) − △ 口 − □ 伊勢の神宮で猿田彦を祀る神官家、 宇○土公氏は「う○のつちぎみ」とも読むのだけど、 これには「牛の土蜘蛛」、つまり牛鬼、牛頭という意味を持たせているのでしょうね。 牛鬼は椿の根っこの化け物と言われているので、 猿田彦は椿神社にも祀られている。 http://www.genbu.net/data/ise/tubakioo_title.htm 土公神陵もあるし、 レイライン西端、淡路島舟木石神座のミニチュアみたいな御船磐座もある。 百済から渡来したと思われる宇志氏が、何と土蜘蛛=スサノオのコードを使用しておられる。 と言うか、もしかしたら、 スサノオ=土蜘蛛のコードは元々、渡来人が創作したものだった可能性すらあります。 しかし、 仮初めにも天皇家の祖神を祀るとされる伊勢の神宮の神官が、土蜘蛛を名乗っていたとは。 牛は、五行の中では「土」と相生する。 土用のうしの日にうなぎを食べる説はこのことに由来するかと。 初天皇爲太子、行于越国、拜祭角鹿笥飯大神。 時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。 太子となった応神天皇が越国へ行き、 角鹿の笥飯大神(ケヒノオオカミ)を奉祭したとき互いに名前を交換した。 大神は來紗別神(イザサワケノカミ)という名になり、太子の名は譽田別尊(ホムタワケノミコト)となった。 (『日本書紀巻第十譽田天皇應神天皇』) この角鹿の笥飯(けひ)というのは、>>35-36 の 越國笥飯浦(けひうら)、故號其處曰角鹿(つるが)也。 と同じ地名ですよね。 敦賀の氣比神宮の近くには「土公(どこう)」という「八角形」の土の塚があり、 猿田彦神社もあるそうです。 (出典: http://blog.livedoor.jp/omtakebe/archives/38339408.html ) >現「土公」は気比之大神降臨の地であり、 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、またの名を曰于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)と 伊都々比古(イツツヒコ)が名前を交換したとも考えられます。 >>35-36 意富加羅國の王子で、 名を都怒我阿羅斯等(角がある人)、 またの名を曰于斯岐阿利叱智于岐(牛でありちき)みたいな名前の人が、う○とこ氏、ス○ノ氏の祖と思われる。 応神天皇の名前交換については、 https://2ch.vet/re_toro_occult_1495709514_646_100 728 〜 あたりに書きました。 上に引用したスレの 733、 >この越国角鹿の笥飯大神(= イザサワケ)を、 勢州阿射加の Itzhak (Isaac or Isaak, transliterated from as Itzhak or Yitzhak, or Yitzchok) と置き換えて考えてみる。< 越国の気比で 2 人が出会っているので、これは必要なかったです。 正直もう何が何だかわかりませんが。 敦賀の気比之大神、つまり 都怒我阿羅斯等(角がある人)or 曰于斯岐阿利叱智于岐(牛である人)は、 降臨したとき、つまり外国からやって来たときから、 元の名が來紗別(イザサワケ)だったと日本書紀には記されていることになります。 醜い人が善行を行っても醜い善人にしかなりません。 ですので、醜い善人というのはしばしば存在します。 しかしながら、美しく聡明な悪人というのはいません。 それは白い黒馬のようなものなのです。 善悪とは、立場の違いによって変化するものではありません。 それは、昨年の大河ドラマでは善き人たちに描かれた氏族が、 今年の大河では悪(あ)しざまに描かれるといった性質のものではないのです。 >>80-81 これは他人様のこと言ってませんのよ。 A と D のことですのよ。 2 人とも、醜い善人になったり、不細工な悪魔になったりしてる、どうしようもない人間ですのよ。 物部氏なんていないのよ。 度会氏もそうだけど。 ならの石上神宮の周辺には、 ○口氏と○野氏しかいない。 西端には○口氏と○野氏、東端には○口氏と○木氏がいる。 宇○○公氏は二見氏と呼ばれていたとあるから、元は二見の人で、 二見の○口ヴィレッジを構成してたんじゃないの。 何かの事情で村を解散して、名前変えたんでしょう。 阿射加とは何の関係もないのよ、宇○○公氏も○野氏も。阿射加に○野氏なんていないし。 阿射加の大地主は○口氏なのよ。 宇○○公氏も○野氏も、当地で勢力をもっていた痕跡はない。 ○口氏が○野氏の一族だったら、阿射加に○野氏の痕跡がもう少し残っててもいいんじゃないの。 だったら、伊勢の神宮ならびに、ならの石上神宮の周辺に集住している○野氏と○口氏とは。 あと、長野から全国へ散らばった、出口はやお、みたいな名前の人は何なんだろうという話なのよ。 北緯 34 度 32 分のレイライン 東端 − 斎宮、○口氏と○野氏が集住。 西端 − 伊勢久留麻神社と舟木石上神社。 北緯 34 度 35 分 東端 − ○口氏と○木氏が共有した城。 西端 − 石上神宮、○口氏と○野氏が集住。 万葉集では、「出」という字は「山上復山有(やまのうえにまたやまあり)」と隠語で書かれてる。 これはつまり「いつく、いづく」は忌み字で避けられていたことを意味する。 一般人には触ることのできない文字だったのよ。 ここだって出鱈目ではなくて、 客観的に検証しようとすれば検証可能なことを書いてますのよ。 だからこそ、嘘と妄想だけの人たちに攻撃されてますのよ。 >>90 > 東端 − ○口氏と○木氏が共有した城。 この城跡のすぐ近く、 ○木家と○口家の中間辺りに、 ○○水神の遥拝所というのがある。 漬け物石くらいの石が置かれているだけで、社も何もない。 神社ができる前の原初の信仰形態は、 この石に向かって遠くの川を拝む素朴なものだったのかなと思う。 で、この○○水神の川の名前が、 西端の石上神宮の近くにある川と同じ名前なのです。 この付近にそんな名前の川はないのですよ。 雲出川の古名のようです。 >>93 漬け物石くらいじゃなかった。漬け物の樽(たる)くらいの大きさだって。 石には「山神」という文字が彫られていて、6 〜 8 畳くらいのスペースに置かれている。 それがフル川水神遥拝所。 不思議なことに、 この付近にはフル川という名前の川はない。 雲出川のことを雲出古川ともいうらしいので、たぶんこのフル川は雲出川のこと。 ちなみに、 雲出川というのはわりと新しい名前で、昔は上流は「いえきがわ」(漢字は家城川)と呼ばれていたとある。 上流は美杉村の日置の里のほうなので、「ひおきがわ」の語頭の h が取れて、 「いおきがわ」→「いえきがわ」になったとも考えられる。 阿射加からこの集落へ至る、東西に伸びた真っ直ぐな道には、 このフル川水神の石と同じ石、つまり、 「山神」と彫られた一抱えくらいの石がすべて東向きに規則正しく置かれてるんだって。 山神と彫られた石が規則正しく、多くは 2 つペアで、すべて東を目指すようにして配置されていた。 その最終地点がフル川水神遥拝所で、そこ以東に石はなかった。 山神とは阿射加の山の神、 フル川のフルは荒ぶる神の「ぶる(ふる)」であるとすることは、暴論ではありますまい。 >>64 、>>90 東端の目印となる地点は、実は城ではなく、この水神遥拝所だったかもしれない。 フルとは辰のことであるというのをどこかで読んだことがあります(振という字は手編に辰と書く)。 水神なのになぜ山神? 竜神だからでしょう。 問題は、 このフル川水神遥拝所と阿射加山頂を結ぶ北緯 34 度 35 分線の西端に何故、 ならの石上神宮があるかでしょう。 当然、どちらかがどちらかに合わせて北緯 34 度 35 分に揃えたのですよね。 で、阿射加の荒ぶる神が暴れていた阿射加山、 この阿射加山というのは正確には桝形山(ますがたやま)という山です。 (Google 地図では桝形山は存在せず、堀坂山(ほっさかさん)という地点に飛ばされてしまう。 堀坂山は有名な北緯 34 度 32 分線上に大日如来だか何だかの仏像がある山ですので、 ここでは関係ありません)。 桝形山の山頂が、なら天理市の石上神宮に合わせてできたのか、 石上神宮が、桝形山の山頂〜フル川水神の線に合わせたのか、 どちらだと思いますか? 石上神宮の物部氏は日神ニギハヤヒの裔を称し、 現天皇家よりも前にこの国を支配していた王朝の樹立者ともされているようです。 このアイデンティティの根拠は何なのでしょうか。 >>64 、>>90 http://www.yukanmie.com/news/4512/ みぬ田神社には「獅子塚」という塚があるのだとか。 獅子と呼ばれた王の墓である可能性もあると思います。 >>107 はアンカーが正しくありませんでした。 >>53 の敏太神社(※三天王社)です。 まぁ、ならの石上神宮と伊勢の神宮の神官家はルーツが同じですので(牛氏)、 すべては彼等の自演という可能性もあります。 まず、桝形山の山頂に揃えて石上神宮を建て、 記紀や風土記といった記録を編纂し、山神の石を配置していったのかもしれない。 その場合は、○木氏や○口氏だけでなく集落の人たちも皆、神官家の工作員です。 しかし、仮にそうだとするなら、 両神官家がそこまでやらなくてはならない事情とは何なのかを、考える必要に迫られる。 しかるに、工作員疑惑のある氏族、 ○木氏と○口氏は、工作員にしては家としてのスケールが大きい。 領有していたと思われる土地も広い。 ○口氏は、自分が立ち退いた跡、城の跡地に、 石屋(石工)、大工(木工大工)、鍛冶屋、棒屋といった職能者を住まわせていた。 これらの人たちとは大昔からの付き合いだったらしい。 大体、うちが牛氏だったら、 うちが伊勢神宮の神官になってるでしょう。 それが、いしごおりの東端で、とどまってるわけですよ。 フル川水神の山神石は、その最終地点の目印。 これより東には山神の石はない。 >>111 だから、うちが宇○○公氏の一族だったら、 宇○○公氏は堂々と、阿射加で猿田彦を祀っていた氏族だと名乗るでしょう。 自宅の庭で猿田彦をひっそりと祀っていたことから、神宮で猿田彦を担当しているというのは合点がいきません。 >城の跡地に、石屋(石工)、大工(木工大工)、鍛冶屋、棒屋といった職能者を住まわせていた。 ここまで凝ったことを工作員がやるでしょうか。 伊勢の神宮、ならの石上神宮、長野の諏訪大社が、 阿射加の荒ぶる神を祀っていることはわかった。 熊野出速雄神社 http://www.genbu.net/data/sinano/minakami_title.htm >皆神山は古代の神々が造った宇宙船の基地なのだ 境内には天地カゴメ之宮というのもあるそうです。 >小丸山古墳は、第三十四代舒明天皇の第三皇子古人大兄皇子、又は出速雄命の御墓所と伝えられるものだが 古人大兄皇子、または出速雄の墓なのね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる