被差別部落にまつわる怖い話 27
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部落問題は解決しましたが、怖い話があればどうぞ。
前スレ
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1505867444/
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured 0001 ばーど ★ 2018/02/10 01:16:13
8日午後4時55分ごろ、朝霞市膝折、市立朝霞第一中学校の4階建て校舎で、正面玄関ガラス製屋根の清掃作業をしていた清掃会社員宗像浩之さん(41)=同市溝沼6丁目=が同屋根から約15メートル下の地上に転落し、全身を強く打って死亡した。
朝霞署によると、宗像さんは8日午前8時半ごろから午後5時ごろの間、別の男性作業員と2人で、校舎2階から4階の窓ガラスと正面玄関のガラス製屋根(縦9メートル、横16メートル)の清掃作業を行っていた。
ガラス製屋根は1メートル四方のパネル式に仕切られ、宗像さんはガラスの一部が割れて落下した。事故当時、もう一人の作業員は宗像さんから約10メートル離れた場所で作業をしていた。同署が事故原因を調べている。
2018年2月9日(金)
埼玉新聞
http://www.saitama-n.../2018/02/10/01_.html 実の親兄弟もそうだけど、同じ地区内の仲の良い事
まるで、その地区全員がヤクザの一組織のようになってる
ボロイ団地や、2戸1なんかの経済的に貧しいヤツらを
頭が最低限食っていけるよう職業麺や金銭面で世話してる。
何かあれば結束力あるのもそういう所から
本当色々とうまくやってるよ
恫喝なんて手はもう殆ど使わない。訴えられたら負けるから
今はどれだけ頭がビジネスに長けてるか
本当ヤクザと同じ どういう意味の弱点かわからない
基本的に弱点になるとすれば、普通の一般市民の方が多人数で
「部落差別反対」のシュプレヒコールをあちこちで展開してやると
意外に毒は毒で制すかも 奈良県人権レート
1翻:生駒市、香芝市、王寺町、曽爾村、御杖村
2翻:葛城市、田原本町、吉野町、高取町
3翻:宇陀市(旧榛原町・室生村)、五條市、大淀町
満貫:大和郡山市、川西町、上牧町
跳満:天理市、平群町、三郷町
倍満:橿原市、宇陀市(旧菟田野町・大宇陀町)
三倍満:奈良市、桜井市、三宅町、河合町
役満:大和高田市、安堵町
ダブル役満:御所市 共産党が出てくると引っ込むという話を何度か見聞きしたことはある
どういう理屈で引っ込むかは聞いたことが無い
>>24
>今はどれだけ頭がビジネスに長けてるか
結局、利益にならなきゃやんないよね >>28
ヒントは共産党系弁護士
駆け出しヤクザ、駆け出し街宣右翼などマイノリティの貧困層が刑事民事で困った時に泣きつくのが共産党系弁護士事務所
そこで世話になった者の一部が出世して「あの先生には世話になった、俺の顔に泥を塗るな」と侠気をみせる >>28
逆
頭が食わしてやらなきゃ地区の者を、という考え
だから地区の者も一丸となって協力する そういうのは例外
同和部落=公安協力者・職業密告者が住んでる地区
昔で言えば忍者とか隠密が住んでた地区
フツーの仕事なんて真面目考えてる奴なんていないから
真面目に考えてるなら部落を出る 天理なんかは分かりやすくて、大物の隠密が住んでて
その人が宗教を作ったという流れだろ
生活があるから、スーパーも役所もあるが
根本的な部分では、「国から諜報活動を請け負うのが俺の本業」
と思ってる人が多いと思うよ絶対 >>29
どっかの学校を部落民が襲撃した時に赤旗しか報道しなくて、その地域で共産党支持者が増えたそうな。
このケースは侠気とは関係ないだろうね。 >>27
御所市ってそんなすごいのか。
ツツジとニシベケミカルと一言さんのイメージで固まってた。 0471 名無しさん@1周年 2017/11/02 10:04:24
30人くらい殺してたりして…
闇が深すぎる
返信 1 ID:8NS512eb0(1/3)
0472 名無しさん@1周年 2017/11/02 10:04:30
>>445
むしろ日本人は苛烈な事やる民族だよ。
昔とかみんな凄いしね。
アメリカに大敗したから今は抑えられてるだけ。
たまに白石みたいに爆発する。
1 ID:Qlp0AYhW0(3/12)
ID:RbuUdEuk(1/2)
0915 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/11/02 20:04:53
名無しさんの主張 2017/11/02 19:35:36
普段はおもてなしや親切の仮面をかぶっている日本人。
内心は相手を貶めたい悪魔の人格を持っている。
その醜い内面性を隠すためにマスクをしている。
返信 1 ID:???(383/383)
0658 名無しさんの主張 2017/11/02 19:46:44
>>657
ニヤニヤヘラヘラしながら足で蹴ってる
ヤバい奴ら。
なんだ、あれ??
まさにアフリカの風習みたいだよな。 同和部落=公安協力者・職業密告者と言うと
必死こいて話題逸らし工作入るよなw いや、君の勘違いレスを避けたいだけだよ
本当に同和部落=公安協力者・職業密告者なら
何故ああいうややこしい若いのがゴロゴロしてるか説明してみい
それとそいつらが何故ダンプの運ちゃんや土方やって2戸1から
離れないのかも。 ややこしい若者で
ダンプの運ちゃんや土方やって2戸1から 離れない者だと
密告者じゃないのか
意味わからんなw 密告される側だから、よそ者が入ってくると何しにきやがったってことで囲むんでしょ。
身元調査反対なんて、もろに背乗りがばれないようにするためじゃん。 >>41
滋賀はBよりK?
兵庫は広いし地域により気質が違うから地域によりけり >>46
長崎の人ってあまりB知らないみたいだからね 段々怪しくなってきたなw
諜報をやる側だから固まって住むんじゃねえの
昔の忍者の里と同じで >>48
滋賀は在所というて部落がけっこうあったと思う >>51
在所には、故郷という意味と、集落と言う意味があります。
部落は、元々は集落の意味で使われるており、多くの地方では今でもそうですが、関西などでは被差別部落の意味に特化しています。
在所も、元々は普通の集落を意味していたのに、関西の一部では被差別在所の意味に変化したのでは? >>49
長崎はやっちまった感が強く矛盾点を指摘されやすいからね。
原爆で消滅したのにも関わらず。あれあれあれ(?_?)戦後復活した被差別部落www
よく言われるのがキリシタンを弾圧していたエタ。あれあれあれ(?_?)
寺社→エタ→非人(=キリシタンは罪人=非人)→新田の構図がよく示されてる地図をネタに街道が行政を揺する。
今は色々嘘ばれてそっとしてて状態、鍛冶屋町?だか加治屋を被差別部落民にしたてあげたら明治維新は被差別部落民が軸になって起こした維新になってまう。
江戸時代にエタがキリシタン弾圧してた。これ完全に統治機構の当局側の人間w
寺社(役所)管轄の手先。エタは庄屋や名主、ドラ衛門みたいな金持ちや
その辺の平人や下人といった百姓よりも一目おかれた存在もいる。
非人身分は完全に平人身分より下、卑下の対象。 0911 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/10/18 13:19:46
昭和60?年(1985年)頃の朝日新聞に、「夫は誰?」という投書が載ったよ。
結婚して数十年、夫が亡くなった。
夫が亡くなって初めて、夫が偽名を名乗っていたことがわかった。
夫は自分と知り合う前に、家庭を棄てて失踪した人だった。
という内容だった。
戸籍とか社会保険とか、どうしていたんだろうと不思議だった。
返信 1 ID:MMB51AMU
0192 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/10 17:31:06
>>191
それ、他人の住民票を使ってなりすましていたんじゃないかな?
住民票を移動させられた側が気づいて騒ぎを起こせばアウトだから、
ターゲットをうまく選ぶ必要がある。
ID:???(111/582)
0193 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/11 10:27:20
そういった相手を配偶者に選ぶ女性もワケありだろう。まだお見合いの比率も高かっただろうに。いわゆる電柱広告を見て業者に接触したんだろうな、当時のアレな層は >>53
長崎の海岸沿いバラックはどんな人達?
>>52
関西でも篠山あたりまで行くと集落という意味で部落という呼び方を使うよ。
「○○部落公民館」みたいな名称もあるし 最近、エセ同和の被害が相次いでいるとのことで大阪波除とかいうところの同和団体がマーク入ってるな また話題逸らしてるぜ
日本のKGBが同和だろ そのための全国ネットワーク
って以外に説明つかねえじゃん 団地住み、実家が焼肉屋、在日、黒人、中国残留孤児の子供、
天理教、創価、箸が金属、保育園卒、晩御飯17時、親が若い、家の壁に共産党のポスター、
川沿い住み、遊戯王カード盗んで転売、アムウェイに勧誘、君が代歌わない、ゲイ、
車が外車、毎月靖国に行く、風水に凝ってる、歯列矯正中、実家が靴屋、
苗字に金が突いてる、苗字に星が付いてる、冷蔵庫は下の部分が冷凍室、
虫歯出来たことがない、ハンコ注射の痕がない、食パンは8枚切り、目玉焼きにコショウをかける、
カルピスが薄い、カレーが鶏肉、祝日に国旗掲揚、苗字が1文字、苗字がない、
最寄駅が信濃町、下半身に汗をかかない、友人のゲームソフト盗み常習犯、
右手がフック船長みたいになってる、プールはいつも見学、腕に火傷、
家の壁にマルフクの看板、兄に用水路に突き落とされて死亡、冷蔵庫にシールを貼っている、シチューをご飯にかける、
カレーに肉をいれない、奥歯が全部銀歯、実家が肉屋、家の近くの道が異様に広い、隣の家と屋根が繋がっている、食パンに塩をかける、家の壁に100万円で世界一周の旅のポスターが貼ってあるくらいしか出ないぞ 奈良県民って大阪へ働きに来るくせに住みかは奈良から出ないんだよな
部落民って奨学金を今でも返さなくてもいいのかな? >>61
冷蔵庫の下が冷凍庫しか共通点
がないな(笑) >>58 この廃車?後方から来ると、右折で行けるはずの、ストリートビューが入って行っていない一角って何かあるのかな
単純に自動車進入禁止だから? ちなみにうちの街(兵庫県三木市)にもいわゆる部落とされる区域はあるけど、普通にストリ
ートビュー車が突っ込んでいってる 自分達で差別される要因を作っておきながら
「おらの村はエタだー」 「おら達は差別されただー」 と、めでたく同和指定を受け
莫大な利益を得続けた部落解放同盟は死刑に値するよなぁ・・ 元は非人だからね
怠け者で農村から追い出された奴 前科者 破産者
そういうのを幕府が囲って、一般民衆を監視させた制度
生活を侵害する密告者を蔑むのは当然であって、差別ではない 川沿いってなんでやべえの?
なんで川沿いに集まるようになったの? 川沿いは大雨の度に増水して家が流されるから普通の人は住まない
価格が下がってエタが集まる >>70
仕事上、身近に水が必要なんだろ
革鞣しや藍染やら川渡しなどなど >>62昔から奈良はあちこちから犯罪者が逃げ込む所で有名
同種が多いんで居心地がいいので余所には行かない >>69
非人とエタは別物だがな
大坂の非人
http://ameblo.jp/stone2/entry-11780042108.html
町奉行所盗賊方の手先の御用も担うようになり、それは犯罪ばかりではなく政治レベルにまで拡大し、
例えば長州藩士の動向を探ったり長州藩とイギリス軍の戦闘の様子を報告している。
火付け・盗賊・殺人などでは独自の警察活動も認められていた。
江戸では車善七や松右衛門の下で組織化されていったが、弾左衛門支配に包括されたところが大坂とは根本から異なる。
本書では「(大阪は)かわた身分と非人身分がまったく別個に組織化を遂げた」と言う。
また江戸の場合御用に警察関係が含まれずそれも決定的な違いだと指摘する。
よって江戸の非人は乞食・勧進がメインなため斬髪原則など外見を強く意識したとする。
大坂の場合四天王寺の寺用をするときは「帯刀」「裃着用」だったこととは大きな隔たりを感じる。
天王寺長吏文書
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin_new/123.html
大坂には天王寺(悲田院)のほか、鳶田、道頓堀、天満の四ヶ所に非人組織が集住する垣外があり、
各垣外には組織の指導機関を構成する長吏一人と数人の小頭が存在した。
これは天王寺長吏家に伝来した文書群で、非人組織の構造や機能を示唆する文書からなる。
彼らは大坂三郷の町や町人方に弟子を垣外番として派遣したほか、
大坂町奉行所盗賊吟味方などのもとで、警察機構の末端としての役割を果たした。
活動の範囲は、配下にある摂河播三国の在方非人番も動員し、九州や四国にまで広がっている。
また天保期には町奉行所地方役のもとで、全国各地の囲米や米・大豆・綿の作柄に関する
情報収集活動を展開していたこともこの文書群から明らかとなっている。 悲田院長吏文書
http://www.blhrri.org/old/kenkyu/burakushi/burakushi_43_2.htm
町奉行所が非人組織を活用する次の画期は天明7年である。
この年は町奉行所は吟味役・目付役を新設し、盗賊吟味役を独立させ、警察機能を充実させた。
目付役は「内密風聞等聞合」という情報収集の仕事を長吏・小頭に命じるのが役目の一つであった。
『長吏文書』には四ヶ所がおこなった風聞探索の報告書が数多く掲載されている。
これを一覧すると、吟味筋にとどまらず、支配国での稲綿の作柄や買米・囲米等に関する情報収集もおこなっている。
町奉行所の情報収集は惣代が町方・在方に人足を派遣して行うものであった。
乍恐口上(御影村珍宝丸紀州新宮浦ニ異国船相見候風聞)
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin_new/121-3.html
この文書群は二度にわたって大坂町奉行を勤めたほか、新潟奉行や堺奉行、
長崎奉行など江戸幕府の要職を歴任した川村就修が役目を通じて収集したもの。
川村家は8代将軍徳川吉宗が創設した将軍直属の隠密・御庭番の家筋で、幕末には海防政策にも深く関与している。
最初の大坂町奉行在任時の嘉永7年(1854)には、ロシア艦船による大阪湾侵入事件が起こっており、その関連資料も少なくない。
なかでも奉行所の下で治安維持や諜報活動に従事した大坂の非人組織のトップである長吏善次郎が作成した、
この事件に関する風聞書が含まれている点は、大坂町奉行の政治的機能を考える上で興味深い。
これは天王寺長吏善次郎が、摂津国御影村の客船珍宝丸が紀州新宮浦沖において、
大坂湾を出て江戸に向かうと思われる異国船に遭遇した情報を得て、奉行所に届け出たもの。
開国への潮流(神戸市立博物館)
http://blog.goo.ne.jp/jchz/e/06d7792c7b538b37ae6056294b1cef1d
嘉永6年(1853)ペリー来航、相前後して、ロシアのプチャーチンも大阪湾に来航する。
関西人にとっては、ペリー船団の浦賀来航より、ずっと切実だったのではないか。
中でも感銘を受けたのは、非人たちを束ねていた天王寺長吏善次郎が、
外国船に関する情報を大坂町奉行所に届けたことを伝える資料『乍恐口上』(墨書、冊子本)。
奉行所が長吏を通じて非人たちを情報収集に使っていたことが分かる。 近世非人仲間社会の社会史的研究
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-08610335/
非人仲間の役の中心は、町奉行所の御用を勤めることで、それは市中探索等人に関わるものと従来は理解してきたが、
今回、国単位の稲綿作柄探索書や村々の囲米探索書等を、在小頭-非人番(村方)の組織をフル動員して作り上げている事例が明らかになった。
このことは、非人仲間とその組織が、町奉行所の村方情報や経済情報の掌握の重要な実働部隊となっていたことを意味した。
摂河の在方非人番と在方小頭
http://www.blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0191-02_nakao.pdf
非人番は、当初各村々に置かれ、村の治安維持や雑役に当たっていた。
しかし、近世中期以降、四カ所長吏の支配に組み込まれ、より広域の治安対策や情報探索に従事することになった。
『長吏文書』の世界
http://www.blhrri.org/old/info/book_guide/human/human_023501.html
長吏は、大坂町奉行に属していますが、その探索の範囲は、
大坂町奉行支配の範囲を大きく越えて、西日本一円に広がっています。
その際、各地に居住している非人番が、重要な役割をはたしているのですが、
その活動は、『スパイ大作戦』か、アメリカのFBIの活動を思い起こさせます。 http://www.blhrri.org/old/news/blhrri_news/376/376_topics_004.html
JRの天王寺駅の北に悲田院町という町名だけ残っているが、悲田院は四天王寺の組織に属している。
四天王寺の本体は天王寺伽藍であるが、その外に四天王寺の領土があり、悲田院は窮民に施しをする施設であった。
悲田院の伽藍の外にあるので、外寺垣内と呼ばれていた。自らは決して非人とは名乗らず、垣内の者と称していた。
大阪には、長吏組織が4ヶ所ある。最も古いのは悲田院であり、そこから別れたのが鳶田、さらに道頓堀、天満にもある。
今回紹介するのは、天保8(1837)年の「下筋道中日記」という史料である。
大阪から西に船で移動する団の日記であるが、本史料に出てくる団長は、
大阪の筆頭与力、内山彦二郎であり、幕末に新撰組に暗殺されることになる。
町奉行所は、奉行がトップであるが、江戸からやってくるので現場のことは知らない。
実働部隊の管理職が与力であり、筆頭与力は実質的には市長・警察署長に相当する。
与力・同心、四ヶ所の小頭のほか、各地域の在方小頭や、在方小頭のトップである組頭などが参加し、
金栄丸・往寿丸・住吉丸、もう一つは名前がわからないが、計四船で出帆している。
出発前に下筋御用のためにお金を借り、丸亀・金比羅へ向かっている。一見、観光旅行のように思われるが、理由は一切書かれていない。
地元の小頭と連絡を取りながらさまざまな調査をしている。大阪の与力であるから、大阪だけを管轄すればよいと思われるが、
実際には岡山藩にも出かけているし、四国の各藩にも出かけ、秘密諜報活動をしていることがわかる。
ただ、この調査は途中で大塩平八郎の乱が起こったため、急遽団長である内山彦二郎は大阪に帰ることになり、挫折をしてしまう。
これを見て想起されるのが「カムイ伝」である。
作者の白土三平は非人を忍者として、秘密諜報活動をする存在として描いていた。こうした活動をするのが悲田院組織であったのではないか。
非人はこれまで最底辺の身分であると考えられてきたが、裏のもう一つの顔があり、秘密諜報活動を全国的に展開しながら、
さまざまな情報を集めて、老中に報告をしていたと考えられる。そのために各村々に非人番が置かれている。
どこそこの誰誰が何をしているのかを非人番が収集し、問題があると老中に報告している。 悲田院文書
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/tushin51.htm
通読すると、いくつもの重要な問題点が浮かび上がってくるが、
たとえば、天保四年の非人による探案・情報収集が個別村落の米買い持ちの家を特定し、
その調査は米量や当主の年齢はもとより、支配を超えて広がっている。
同じ天保・弘化期の作柄調査も実に広域的で、幕府が地域を越えて関心を寄せていることがわかる。
続編所収の天保八年二月十日に始まる下筋道中日記には、横帳裏表紙に「大坂盗賊方手附 勘定方」とあり、
四人の同心が長堀商売米屋町の平野屋佐吉による船四艘のうち金栄丸に乗り、天満、道頓堀、飛田の小頭を連れて十五日下津井着。
このうち飛田小頭の栄三郎ら四人については、「此分者兵庫津より上陸、内山様御供ス」と注記されている。
内山もこの探索に加わっていたのである。これにつづいて、住吉丸に天王寺長吏や在村の小頭が搭乗し、十六日下津井へ着船。
讃岐金毘羅などを回っているが、一月二十八日に「内山様・関様御帰国道、和介御供致し帰」とある。
内山彦次郎と同心の関弥治者衛門が帰ることになり、道頓堀小頭の和助(小野)がお供している。
実は二月二十五日四ツ時(午前十時)頃、十九日に起こった大坂表騒動一件(大塩事件)について、
重五郎から住吉丸に乗って西行した林(悲田院長吏)と小野(悲田院小頭)あての御状が、
出張先の丸亀に直人足で届けられ、大坂出火の様子がわかった。
その後のやりとりは文意のとりにくいところがあるが、二十四日同行していた飛田小頭の助八が内山の御状をもって大坂へ帰り、
その返事が二十八日に岡山に着いて、内山が事態を知って急遽帰国となったとみられる。
つまり、乱直前に吉見九郎右衛門が密訴した文章に、内山が「此度遠方御用に参り候故に、吉見九郎右衛門が密訴も承り申間」といい、
その出立を差し延べるよう賢察を求めたとあるように、内山は当時西国筋、備前へ出張中で不在。
火事が大塩の乱と知って二月二十八日に急遽大坂へ向け出発したことが、この史料で明らかになった。
すでに乱後九日が経っていたいたのである。 非人番
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E4%BA%BA%E7%95%AA
江戸時代に農村の治安維持の任務を与えられていた生業を指す。
名称は似ているが、物乞いを生業としていた野非人とは全く異なる人々である。
主として、関西地方に存在した。
非人番の社会的役割
彼らに与えられていた役割は、盗賊および野非人(本来非人身分ではないが、
経済的困窮により非人の状態になった者、乞食)の取締りであった。
その報酬として米や麦を与えられていた。これを非人番給という。 大火事の後に勝手に住み着くようなもんで、
大水で家が流された後にも住み着くのかもね。 >>79
犯罪者を取り締まるというのはわかる。
非人身分の者が罰として村の番をしてるわけではなくて、
犯罪者や泥棒、非人が来ないように村を警備する人のことを
非人番というのではないのか?
犯罪者の前科者が村の警備って変な話。 村のために働く善人だと、中央省庁から見て扱いづらいからだろ
村を売り飛ばすような薄情な奴 鼻つまみ者の方が都合がいい
遊牧民型の統治は常に平民を仮想敵として見るからね
代理人として送り込む奴は、村の利益を損なうようなのを使う 大坂の非人
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52051443.html
非人たちは、17世紀の頃までは「乞食」として市中の家々を「勧進」して回っていたが、
その中で特定の家や地域との関係が強くなってきた。
一方で、与える側の町人たちの「志」の範囲を超えるねだり行為(悪ねだり)も行われるようになってくる
(子どもの宮参りを取り囲んで祝儀をねだるといったことも行われたらしい(136p)。
こうした悪ねだりの取り締まりのために、関係の深い垣外のメンバーが垣外番として抱えられていく。
そしてその権利は「垣外番株」として相続されていくことになる。
「乞食を取り締まる仕事が乞食に任され、それが権利化して家督になっていく」ということが起こっているのです。
なにか変な話ですが、非常に江戸時代の特徴を表しているような話でもあります。
さらに19世紀になると、非人たちは幕府の警察機構の一端を担っていきます。
それは盗賊の捕物、役人の警護、さらには政治レベルの情報収集にまで及んでいたとのことです
(例えば、幕末には天王寺垣外のメンバーが長州藩の動向を報告している(140p)。
また、こうした「御用」を勤めたことを背景として、差別の視線と戦い、
自らの処遇を引き上げようとした非人たちの姿も見えてきます。
19世紀半ばになると、非人たちは「大坂絵図」の中に書かれた「非人村」の記述の削除を求めて与力に訴えています。
もっとも、これは垣外仲間が他の非人たちと自分たちを区別してほしいと言ったもので、
「非人身分」そのものの否定ではないのですが、四天王寺との由緒などを持ち出すことで、
「長吏」と書き換えさせることに成功しています。
さらに四天王寺に対して、毎年白銀を奉納する代わりに扶持を与えてもらう取り決めをするなど、
四天王寺という大寺院を使った自らの身分の引き上げの動きも起ってきます。
一方的に差別されていたという印象がある非人身分ですが、その中には実にしたたかに生きている人々がいたのです。 非人乞食自体を無くせば、そういう「悪ねだり」も無くなるだろ
ってのは必ず出てくる議論だが
乞食が居なくなると困るのが、他でもない中央省庁
思想警察の下請け 権力の尖兵として乞食を使ってたわけだな
それの現代版が創価なんかの胡散臭い団体。 遊牧民型の中央集権体制つうのは
その手の浮浪者 非人乞食が必須である体制
意図的に「あぶれ者」が出てくる社会構造にして、そいつを鉄砲玉 サクラ 密告者等
中央権力の尖兵として使うわけだな
これが「分断統治」の具体的手法。 >>81
京都の洛中の場合は、町の入り口に木戸があって、その木戸番が悲田院から派遣された非人だった。
木戸は外からの侵入を防ぐだけでなく、中の人を外に出さない目的もあるので、町が雇った人ではダメだった。
非人と言っても野非人(のひにん)と抱非人があり、抱非人にはちゃんとした生業があった。木戸番も非人の生業のひとつ。 >>85
分断は素人(商家、農家など)と被差別民の間だけでなく、被差別民の間も分断というか敵対するように仕向けられていた。
京都ではエタ地区と非人地区を隣接して配置し仲が悪くなるようにしていた。 富山県には『藤内』というエタが平民を取り締まったり
刑吏(警察の下働き)ってのをやってたが、基本エタってのは
死牛馬の解体やそれに伴う皮革作業が主で、あと死体の処理、し尿運びとか穢らわしい仕事をするのがエタだよ
西日本では解放運動が盛んだったため、「おらも部落だー 差別されただー」と喚き散らしあちこちで同和認定され
かえってエタ村があからさまになったのに対し、東日本では隠したい人たちが多く地元の人以外は知らない
しかし解放同盟が無理やり同和地区を要請し指定を受けた所も多い(迷惑な話だよなw)
解放同盟は死ね!エタ公に餌をやり過ぎた行政も死ね! 加賀藩の賤民身分は藤内、皮多、物吉など、独特の呼称をもち多様である。
藤内は、賤民全体の支配権を有し、城内掃除や牢番・行刑などのほか、
街道警固や領内の見回りが主要な任務とされ、藩全域に配置された。
今日の部落の小規模点在性は、主としてこれによるものである。
一方、加賀藩の皮多は穢多とも称され、もっぱら皮革業務に従事した。
この2つの身分が主要であったことから、今日、藤内系と皮多系の2種の部落に大別できるが、
その系譜や成立過程は一部を除き定かでない。他の身分については不祥。
なお藤内は、今日も部落民を指す賤称として用いられている。 加賀藩の賤民政策の検討
http://blog.goo.ne.jp/aehshinnya3/e/125c5ca971061d90bf8d612bc81a0f4d
(1)中世賤民制度の再編
横山論文では「利家は1581年に能登に入部したとき、…宮守の藤内にも土地を与えている。
この時点ですでに中世賤民の近世賤民への再編に着手している。」と書いています。
田中論文では、「前田氏は金沢城に入城すると、藤内・穢多を城下末尾に移し、
…近世初頭すでに賤民身分=部落の成立を図った」と書かれています。
両者とも、賤民身分の存在を前提にした分析で、起源については確たる論及がありません。
(2)新たな部落の設置
1609年、利家は加賀藩の武具・馬具を大量生産するための体制(軍事的)を確立するために、「播磨、木ノ本から皮多を招致」し、
第2代藩主利常は「(安土城下)MT町の皮多を浅野川KR橋に移転」「江洲木ノ本の皮多を高岡城下に招致」しています。
1634年、第3代藩主家綱が「播磨の皮多を小松に招致した」ことなどが資料的に確認されています。
横山論文は「近世封建権力によって、職能的に制度化されることによって、賤民の身分に固定化されるものがおり、
他方では、中世において賤民視されていた者でも、近世への移行期あるいは近世社会において商人化したり、
農民化することによって、脱賤民化を図る者もあった」と書いています。
加賀藩では、中世賤民のすべてが近世賤民に移行したとは言えないようです。
中世賤民の一部を再編しつつ、軍事的政策の展開として、金沢城周辺に新たな部落を創出したとみるべきでしょう。 (3)藤内の警察的配置
藩政初期には、多額の御用金の負担を強いられ、物価が高騰し、農民層が分解し、都市への流入・都市下層民の増大を招き、
金沢、金石、美川、小松などで、米屋や富豪を襲う打ち壊しが起こり藩体制が動揺しました。
1652年、城下に他国者や非人乞食が増大し、取り締まるために藤内頭の下役人として、非人頭を浅野川NJ村領と犀川NK村領に置きました。
また天和年中(1681〜84)に石川郡、河北郡、能美郡にいる藤内に対し、非人取締まりを命じ、1691年には盗賊改め方を命じています。
このように藤内は警察的な職掌を課せられていました。
藩権力は藩社会を守るために、藤内に刑政・警察的な末端支配を担わせることによって、
藤内は従来以上に社会から疎外され、賤視されていったと考えられます。
また、加賀藩の部落の配置を見ると、安政5年(1857)に石川県内で騒動が起きた地域と部落所在地の多くが一致し、
かつ金沢市内と街道筋に集中しており、これは警察的配置と考えられています。
(4)藩政危機と賤民政策
1698年ごろから藩財政が危機に瀕し、農民からの収奪を強化し、農民層が分解し、非人(乞食など)が増大していきました。
加賀藩は藤内を「人躰ニ似セ奢申」(1723年)、「元来人外ノ者」「平人エ交リ候筋合之者ニ而ハ無御座(者)」(1776年)
と差別キャンペーンを張って、藤内の耕作を制限し、村外移転を決議させたりました。
天保期(1830〜44)にも、藩財政の危機が進行し、村方・町方とも疲弊し、
物価が高騰し、農民層が分解し、都市に流入して下層民が増大しました。
米屋や富豪を襲う打ち壊しが起き、加賀藩は藤内に刑政・警察的役目を負わせることによって、
享和(1801〜04)以前は藤内に対してはそれほどの差別意識もなく、
同情的であった農民も天保頃になると次第に嫌悪と恐怖の目で見るようになりました。 (5)加賀藩の非人政策
1670年代、連年の不作のために、農民が都市に流入し、正業に就けず、無宿者が増大し、非人化(乞食など)していく者が絶えませんでした。
非人が金沢に集中したり、盗賊がはびこったりして、社会秩序が不安定になりました。
加賀藩は盗賊改め方奉行を設置し、藤内に金沢に入ってくる非人を取り締まらせました。(1698年頃、1830年頃も同様)
藤内には、耕作を制限し、村外追放するなど、差別政策を強化しましたが、非人に対しては、
新田開発、百姓分下人として労働させ、帰農希望者には半年分の飯米を支給しています。
これは、非人化した農民を帰農させ、藩財政を立て直す政策です。
このように、賤民(藤内と非人)の間にも差別を設けて支配していました。 >>93
加賀藩には野非人しかいなかったの?
悲田院がなかったら抱非人なんて発生しない? >>93
エタはずっとエタのままだけど、
非人は場合によっては素人に戻れるという例ですね。 「おんぼ」とは「陰坊」であり、加賀藩の賤民の一種、藤内の別名である。
文政七年(一八二四)、藤内頭による各種賤民の縁起に関する上申によれば、
陰坊とは、武家・町方の葬儀に携わる彼らが町家からでた死者を葬る場合に名乗った名称である。
また、藤内に限らず、埋葬に携わる者は広くかく称したともいう(『史料』〔一三〕四五三頁)。 >>96
「救恤」つまり野非人のことしか書いてないね。 0001 水星虫 ★ 2018/02/15 23:55:36
プレス機に挟まれ男性死亡
*ソース元にニュース画像あり*
http://www3.nhk.or.j...uchi/4065277821.html
※NHKローカルニュースは元記事が消えるのが早いので御注意を
14日、防府市の自動車部品工場で28歳の男性従業員がプレス機に下半身を挟まれ、
病院に搬送されましたがまもなく死亡しました。
14日午後3時前、防府市浜方の自動車部品メーカー「南条装備工業」の工場で、
従業員の石田竜起さん(28)が部品をプレスする機械に下半身を挟まれているのを
別の従業員が見つけ、消防に通報しました。
石田さんは事故の直後には意識がありましたが、出血が激しく、防府市内の病院で死亡しました。
警察によりますと石田さんは、プレス機の金型を交換する作業を1人で行っていたということです。
警察は事故の原因を調べるとともに、作業の手順など安全管理の状況についても
工場の関係者から詳しく事情を聞くことにしています。
02/15 20:37 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています