ちょっとそこだけ抜いてみるね。

物部十千根大連(もののべのとおちねのおおむらじ)は物部氏の遠い祖先で、
垂仁天皇朝では五大夫の1人だが、天皇の勅で出雲に出向き、出雲の神宝の検校を行なっている。
これが、25年の事になるのか。。。

この時点で、出雲国が大和に服従したとされる説もあるよね。

ウーン。垂仁天皇の子で本牟智和気(ほむちわけ)ってのが居るが、
古事記に逸話が、こんな話があるね。。。

本牟智和気は成長しても何も話そうとしない。口を開かない。
占ってみると、本牟智和気が話さないのは出雲の大神=オオクニヌシの祟りと判明した。
曙立王(あけたつのみこ)、菟上王(うながみのみこ)=共に皇族。を補佐として、
本牟智和気、自らが出雲に向かった。

本牟智和気一行が「出雲の大神を祀り終わって」帰る途中、斐伊川まできた時、
出雲の臣の祖である岐比佐都美(きひさつみ)=出雲の臣の祖が、
川下に青葉を山にした飾り物をつくり食事を献上した。
「その青葉の山をみて本牟智和気は初めて言葉を発する」。と。

「出雲の大神を祀り終わって」だけれども、状況として言って見れば、
大国主の神霊を注連縄(しめなわ)で縛って、結界を作り、その中に封じ込めた
と言った具合だろうね。

つまり当時の出雲大社は今より巨大だったし、
出雲大社と言うのは大国主の神霊を封じて閉じ込める呪的な建造物としての箱の
要素が満載だね。
で、それが成功して「おじいさんクララが喋ったってか」(笑)