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王仁(わに、生没年不詳)は、辰孫王と共に百済から日本に渡来し、
千字文と論語を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物である。
− Wiki より−
王仁が来朝したのは応神天皇期。
奇しくも、同時期に 2 人の「オージン」が存在することになる。 応神天皇のまたの名は譽田別尊(ホムタワケノミコト)。
実はこの名前は別の神様と交換した名前らしい。
日本書紀には次のようにあります。
一云「初天皇爲太子、行于越国、拜祭角鹿笥飯大神。時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別
神、太子名譽田別尊。」然則、可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳。
(『日本書紀巻第十譽田天皇應神天皇』)
太子となった応神天皇が越国へ行き、角鹿の笥飯大神(ケヒノオオカミ)を奉祭したとき、互いに名前を
交換した。大神は來紗別神(イザサワケノカミ)という名になり、太子の名は譽田別尊(ホムタワケノミコト
)となった。大神の元の名は譽田別神(ホムタワケノカミ)、太子の元の名は去來紗別尊(イザサワケノミ
コト)ということである。ただし、詳細は不明。 一云「初天皇爲太子、行于越国、拜祭角鹿笥飯大神。
時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。」
然則、可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳。
(『日本書紀巻第十譽田天皇應神天皇』)
太子となった応神天皇が越国へ行き、
角鹿の笥飯大神(ケヒノオオカミ)を奉祭したとき互いに名前を交換した。
大神は來紗別神(イザサワケノカミ)という名になり、太子の名は譽田別尊(ホムタワケノミコト)となった。
大神の元の名は譽田別神(ホムタワケノカミ)、太子の元の名は去來紗別尊(イザサワケノミコト)ということである。
ただし、詳細は不明である。 古事記にも同様の記述があります。
古事記
故建?宿禰命率其太子爲將禊而經?淡海及若狹國之時於高志前之角鹿造假宮而坐 爾坐其地伊奢沙和氣大神之命見於夜夢云以吾名欲易御子之御名爾言?白之恐隨命易奉
亦其神詔明日之旦應幸於濱獻易名之幣 故其旦幸行于濱之時毀鼻入鹿魚既依一浦 於是御子令白于神云於我給御食之魚 故亦稱其御名號御食津大神 故於今謂氣比大神也
建内宿禰命が太子を連れて高志国の角鹿へ禊ぎに行ったとき、その地に坐す伊奢沙和気大神が夜の夢で「吾が名を御子の御名に交換したい」、「明朝、浜にて名を交換した幣を献じましょう」と申し出た。
翌朝、浜へ行き、鼻の傷ついたイルカを見た太子は、「我給御食之魚(神様が食用の魚をくだされた)」と喜び、その神の名を称え、御食津(ミケツ)大神と名付けた。これが氣比大神である。 日本書紀では、応神天皇の元の名は來紗別神(イザサワケ)であったのが、
笥飯大神(気比の大神、ケヒノオオカミ)と名前を交換したことにより譽田別神(ホムタワケノカミ)となる。
一方の古事記では、笥飯大神が最初から伊奢沙和気大神(イザサワケ)となっており、
これが御食津(ミケツ)大神と呼ばれるようになった気比大神=笥飯大神である。
太子の改名後の名は不明。
要約しますと、
日本書紀では、
笥飯大神(気比の大神、元の名は譽田別神)→ 改名後、來紗別神(イザサワケノカミ)となる。
応神天皇(元の名は來紗別神イザサワケノカミ)→改名後、譽田別神(ホムタワケノカミ)となる。
古事記では、
伊奢沙和気大神(イザサワケ)→ 御食津(ミケツ)大神 = 気比大神=笥飯大神
応神天皇(誉田別命)→ 改名後の名は不明 ところが、そもそも応神天皇は産まれたときから譽田別という名前であったことが、
日本書紀の >>727 に引用した部分の直前に書かれているのです。
既産之、宍生腕上、其形如鞆、是肖皇太后爲雄裝之負鞆(肖、此云阿叡)、故稱其名謂譽田天皇。上古時俗、號鞆謂褒武多焉。
応神天皇は産まれたとき既に腕の肉が盛り上がり、その形は鞆(とも)のようで、
神功皇后が男装したときに着けた鞆に似ていた(これを阿叡(あへ)という)ため、その名を譽田(ほむたの)天皇と謂う。上古においては、鞆のことを一般に褒武多(ほむた)と謂ったからである。 元の名は來紗別神(イザサワケノカミ)であったのに、
譽田別神(ホムタワケノカミ)に改名させられた人物がいる。
ただし、この人物は偽ものです。 本当の元の名は來紗別神(イザサワケノカミ)であったのに、
譽田別神(ホムタワケノカミ)という名を故意に被せられている人物がいる。
(被せられているというのは、産まれたときに付けられた名前です)。
これが本物の応神天皇です。 日本書紀のこの条では、
元の名が來紗別(イザサワケ)神だった神は越国角鹿の笥飯大神(ケヒノオオカミ)ということになっている。
「然無所見也、未詳。」は「不確実で詳細は不明」という意味。
これはこの条が越国角鹿(現福井県敦賀市)の伝承に過ぎないから確かなことはわからないというほどの含意ではないか。
これを踏まえて、この越国角鹿の笥飯大神(= イザサワケ)を、勢州阿射加の Itzhak (Isaac or Isaak, transliterated from as Itzhak or Yitzhak, or Yitzchok) と置き換えて考えてみる。 応神(本物)= イサク
応神(偽もの): イサクから譽田別に名前が変わった(ことになっている)人。
王仁=? 元の名はイサクであったが、本当の名前を奪われて譽田別にされてしまった。
「本当の名を奪われたのは私」。
「本当のイサクは私」。
この種の主張をする人を、わたしはオカ板で見すぎるほど見てきました。 元の名はイサクであったが、本当の名前を奪われて譽田別にされてしまった。
「本当の名を奪われたのは私」。
「本当のイサクは私」。
応神天皇の時代にも、このようなことを言う人がいたということです。 わかりますか?
神功皇后の子である本物の応神天皇は本当に元の名が來紗別(イザサワケ)、つまりイサクだったのです。 本物の応神(=イサク)は消去され、
イサク → ホンダワケになった人物が応神となります。 >元の名はイサクであったが、本当の名前を奪われて譽田別にされてしまった。
>「本当の名を奪われたのは私」。
>「本当のイサクは私」。
>応神天皇の時代にも、このようなことを言う人がいたということです。
これが応神天皇です。
あまりにもややこしいので、記紀でも論理が破綻してしまっているのです。 >>738
> 本物の応神(=イサク)は消去され、
> イサク → ホンダワケになった人物が応神となります。
ここで、2 人のオージンが存在する必要が生じます。 677 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2018/02/22(木) 18:04:31.58 ID:tyrqpYZV0 [20/22]
死刑になったというのは、
言い過ぎかもしれないけど、同じような状態
『天財若子』
このような名前の家
×『天財若子』
○『イサク家』 わたしは、予言、預言スレにいるス○ノさんが、現天皇家の子孫だといっているのです。
ス○ノ家の名誉を毀損するようなことは何一つ言っていません。 ス○ノ氏、辰孫王、王仁などについては、
誰が検索しても同じ検索結果が得られるはずです。
(検索結果という)客観的データに間違いがあるとお思いなら、引用元のサイトに報告してください。
客観的データから推論と仮説を形成するのは個人の自由であり、
判断は読む人に委ねられるべきです。 >>740
> ここで、2 人のオージンが存在する必要が生じます。
おそらく、このときから天皇家は裏と表の表裏一体の形となったのでしょう。
預言スレにいるス○ノさんの言っていることはたぶん本当で、裏の皇籍というのがある。
収入がなくても生活できる黒幕が存在するのだと思います。 あまりの込み入った工作に、記紀の編纂者もお手上げだったのよ。 >>743
> わたしは、予言、預言スレにいるス○ノさんが、現天皇家の子孫だといっているのです。
文がおかしかった。
わたしは、予言、預言スレにいるス○ノさんと、現天皇家の先祖が同じだといっているのです。
あと、これは王朝交代の話です。
それ以前の天皇家が現天皇家であったことを前提とする話ではありません。 極言するならば、現天皇家とはス○ノ家のことなのです。 今晩は、皆さまの敵、YHVH です。
>>711 では、
預言スレのス○ノさんと
YHVH の先祖同士が、県境を挟んで隣り合う地域に住んでいたことが判明しました。
すぐご近所さんだったわけです。
奇遇ですね。 倭姫命を祭神とする神社
http://www.genbu.net/data/yamato/mitue_title.htm
御杖神社
ス○ノさんのご先祖が住んでいた地域にある神社です。
姫命は垂仁天皇(BC29 〜 AD70)の娘とされているから、
大体 1 世紀頃の人ということになっていますけど、実際にはもっと新しい時代の人でしょうね。 訂正
○倭姫命は垂仁天皇(BC29 〜 AD70)の娘とされているから、
以下は >>751 のサイトからの引用です。
>紅石 大字神末小屋神社の紅石。倭姫命が賊に追われた時、紅・白粉を捨てられたので、石が紅に染った。
女性が化粧して紅や白粉を携帯するようになったのは、早くて 3 世紀以降と思われます。 >また、倭姫命が賊の目をくらますために髪を切り落され、男装されたので落髪と、「やれやれ楽になった」と云われて<
神功皇后はこの頃(3 〜 4 世紀)の人でしょう。 ごめんなさい、>>751 御杖神社の祭神は倭姫命ではありませんでした。
>あるいは牛頭天王社、牛霊天王社などとも称された神社。
牛頭天王という名称は一般的ですけど、
牛霊天王というのは、たぶんこの御杖神社にしかないはず。
「牛霊」は「牛王」の古字です。
菅野氏
氏祖 王牛 >>752
>倭姫命が賊に追われた時
>>753
>>また、倭姫命が賊の目をくらますために髪を切り落され、
この地域には、賊がよく出没したようです。 >>713
王仁の弟子の一人に、応神天皇の息子の菟道稚郎子(うじのわかいらつこ)という人がいる。
この菟道稚郎子の離宮があったことが「宇治」の地名の元となったそうです。 男性皇族が幼年で亡くなると「若郎子(わかいらつこ)」という名が付けられるらしいのですが、
菟道若郎子は成人するまで生きています。
調べた限りでは、「若郎子」または「若子」という名は、
この菟道若郎子と、大若子、小若子、あとはス○ノ天財さんしかいません。 素戔嗚尊と稲田姫命を主祭神とする八重垣神社(島根県松江市佐草町)。
古くはは佐久佐(さくさ)神社と呼ばれた。
神武天皇の妃、
伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)=富登多多良(ほとたたら)のシンボル、笹百合の別名は三枝(さいくさ)。
佐草(さくさ)と三枝(さいくさ)の関連から、
櫛稲田姫 = 伊須気余理と考えると、
素戔嗚尊 = 神武天皇になる。 須我神社
島根県雲南市大東町須賀
祭神 須佐之男命、稲田比売命、清之湯山主三名狭漏彦八島野命
清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)
この人が応神天皇。 プレアデスの七媛女(ななおとめ)の長女はゼウスパパと結婚してヘルメスを産みます。
ヘルメス ≒ オーディン ≒ 猿田彦 素戔嗚尊と稲田姫命の話の舞台は島根県松江市。
子どもは清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠。
狭漏彦は「さるひこ」。
神武天皇といすけよりは奈良県桜井市の狭井河。
子どもは神八井耳命(=伊勢津彦)。
伊勢津彦(またの名を出雲建子、またの名を櫛玉命)は、
妃が弥豆佐佐良比賣命(みずささら)で子どもは大年神(子どもに関しては倭姫命世記による)。
舞台は伊勢。
いつも言ってますように、
人格神というのは、複数の氏族から成る時空間を超えた複合体として考えていますので、
厳密な意味での推論と仮説を形成するのは困難というより不可能です。 を建てるのは困難というより不可能です。
が、
清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)
この人が応神天皇(消されたほう)。 ただし、清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)という人が消されたのではなく、
消された人に、「清之」という名字を付けたのです。 この人はまた、大国主です。
半島から土地を引っ張ってきた、国引きの人。
おそらく、神功皇后の時代の人でしょう。 この人はまた、猿田彦でもあると言えます(>>760)。 清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)という人が消されたのではありません。
消された人に「清之(ス○ノ)」という名字を、記紀の中で付けているのです。 清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)
この人が、消されたほうの応神天皇です。
「ス○ノ」という名字ではありませんでしたが、記紀ではそうになっています。 故れ其の大年~の兄、八島士奴美~。亦名は清之?名坂輕彦八島手~。[亦清之湯山主三名狹漏彦
八島篠~と云す。亦清之湯山主三名狹漏彦八島野~と云す。
(平田篤胤『古史成文』)
>其の大年神 >其の大年神の兄
神八井耳は兄でありながら、弟に天皇の座を譲ります。
消えたわけです。 古事記では、産まれたとき「ホムタワケ」と名付けられたはずの応神天皇の改名後の名前が書かれていません(>>729)。
清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)になったわけです(ただし消された後)。
清之という(音の)名字は、消されたほうの皇統の裏の名字として現存している。
ただし、これはフェイクです。
本当に消された応神(オーディン)はそんな名字ではありません。 この人の存在自体が、スサノオまたは猿田彦に関する渡来人説の根拠となるものです。
しかし、この人はフェイク、ダミーです。本当のスサノオまたは猿田彦は、そのような名字ではありません。 須我神社
本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命[1]であったものが、
記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる。
(WWiki より) 訂正
WWiki → Wiki
消した相手に自分の名前を付けるというパターンがあるのよ。
例えば、○ろみという相手を消して○○タッチという名前を付ける。
その○○タッチと対話する役を自演したら、自分は誰に見えると思う? ○ろみはまだ消えてないから成功してないけど、これやってる人いますよね。 日本の歴史学者は、5ch のオカルト板を短くても 3 年は ROM ってから、ものを言うべき。
そうでない場合、その人の研究成果に見るべきものはないと断言できる。 >>752
女性が白粉や紅で化粧し、さらに携帯タイプのそれら(白粉と紅)が作られるようになったのは、もっとずっと時代が下りますね。
奈良飛鳥時代の持統天皇に、鉛白粉が献上されて天皇が大変喜んだという記載が古事記にあるそうです。
もしかしたら、倭姫命もずっと新しい時代の人で、
持統天皇と習合しているくらいに考えてよいのかもしれない。 神武天皇は紀元前 7 世紀に即位したことになっているのだから、
奈良飛鳥時代までの千年くらい歴史がサバ読まれてるのだと思う。 >>774
これの上位バージョンとして、
消した相手キャラとの対話を自演する○ろみを自演するというパターンもあるのよ。
わけわからないけど。 >>781-782
倭姫命と持統天皇を習合させることも可能だとすれば、
石見(現在の島根県益田市)の国造として赴任し、同地で水死刑に処せられた柿本人麻呂と持統天皇との関係も見えてくるものがある。 ニギハヤヒの子孫とか出雲族とか日本最古の氏族とか言われていても、
後裔が石見の国造だったり、曾禰氏だったりするのですよ。
曾禰は御杖村(>>716)ス○ノに隣接する地域。 兵主神社 (ひょうすじんじゃ)
兵庫県西脇市黒田庄町岡
祭神: 大己貴命、八千戈命、葦原醜男、大物主命、◎神清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命
総社 播磨国総社 射楯兵主神社(はりまのくにそうしゃ いたてひょうずじんじゃ)
祭神 射楯大神
射楯大神はスサノオの子とあるので、神清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命と同じ神でしょう。
播磨風土記には応神天皇に関する伝承が不思議なほど多い。
兵庫(播磨)を治めいた黒田官兵衛は、大分→福岡と転封になった。
福岡といえば金印。
黒田官兵衛には何かあります。 上げ
福島の信夫山にも山王権現日吉神社があるのね。
比叡山延暦寺から山王権現が信夫山に勧請されたとき、ご先祖もついて来たんじゃないですか。
>現在も加藤家・小野家・菅野家ほか、六供(ろっく)直系の子孫が、誇り高くお住まいになっています。
ス○ノ家は何しろ現天皇家なんですから、元宮廷人として誇り高くお住まいになっているのは当たり前でしょう。 誇り高くお住まいになっている方々の名字って、島根県益田市(石見)に多い名字なのよね。 例えば○坂さん。
福島県福島市と島根県益田市、あと熊本県熊本市に集中してる。 信夫山に山王権現を勧請した坂上田村麻呂も渡来人で、墓所は島根県邑智郡にある。 >>790
○坂さんも華族ですものね。
久邇宮家や梨本宮家とつながってる。
久邇宮さんは伊勢皇學館大学の創立者でもあり、比叡山延暦寺の座主でもあった。 石姫と蜂子皇子の伝説って、神功皇后と応神天皇(本物)が、
○野さん、○野さん、○坂さんたちに伴われて逃げてきたといわんばかりの話だものね このメンバーが石見の国出身というのもすごいと思います。 https://ameblo.jp/m-seriko/entry-12165428601.html
信夫山の里、いいところね。
牛頭天王宮と山王宮がス○ノさんの担当するお社、
猫稲荷というのが○坂さんのお社のようです。
預言スレのス○ノさんの主張というのは、
この里に伝わる石姫と蜂子皇子が本物のスサノオとその母であり、
この本物を守る人たちの里を破壊して、あまつさえ殺戮しようとしたのが先の震災であったと。
こういうことらしいです。 皇位爭いに敗れた皇太子と皇后が、
それぞれ 6 人と 7 人の家臣を連れてこの里に逃げてきた、という伝承がある。
これはただの伝承ではなく史実のようで、この 6 人と 7 人の家臣は六供七宮人と呼ばれ、
京都から正式な官職を与えられて税も免除されていたという。 京都(おそらくは比叡山延暦寺)から正式な官職を与えられていたという事実が、
これらの六供七宮人は天皇家に係わる人たちであったことを物語っているでしょう。
どうすれば、この蜂子皇子がスサノオだったと考えられるのでしょうか。
スサノオって前王朝の人のこと言ってるんですけど。
現天皇家ではなくて。 だから、わたしとス○ノさんとの間の根本的な齟齬というのは、
わたしはスサノオや猿田彦を前王朝の王として捉えているのに対して、
ス○ノさんはこれらを現存する天皇家、「現天皇家」の皇位爭いに敗れた人として考えている。
ということではないか。 http://www.genbu.net/data/mutu/kuronuma3_title.htm
信夫山の麓にある黒沼神社
ここの神紋が桐の御紋と菊の御紋であること一つをとっても、
この地域が現天皇家とゆかりの深い地であることがわかるでしょう。 現天皇家を守るバリバリの秦氏系仏教の伏魔殿、
比叡山延暦寺から正式な官職と無税の恩典を与えられていた、やんごとなきご身分の方たちが、
どうすればスサノオや猿田彦になるのよ。 こうなると、天海が会津(現福島県)の舟木氏の出であるようにほのめかしている理由も見えてくるわね(>>649-650)。
天海を舟木氏に見せようとする工作員は、伊勢の舟木氏が蒲生氏につき従って会津若松へ行ったことを知らなかったんだと思う。 >>795、>>798
【訂正】
蜂子皇子は崇峻天皇の皇子で聖徳太子のいとこにあたる。
日本海側京都から船で東北へ逃れ、山形の羽黒山を開基したと伝えられる人物。
一方、福島の信夫山には、
欽明天皇の皇后、石姫(石比売命)が皇太子の渟中太命(八田王子?)と謀叛を起こして敗れ、
それぞれ 6 人と 7 人の家来を連れて当地へ逃げてきたという伝承がある。
その 6 人と 7 人の家来は六供七宮人と呼ばれ、京都から正式な官職と無税の恩典を与えられて、
今日までこの地に誇り高くお住まいになっている。
こういう話です。 不思議なのは、
山形の羽黒山にも福島の信夫山にも、
九州王朝の年号が記されているということです。
信夫山の羽黒神社に記されている「崇峻天皇三年端政」の「端政」は、
多利思北孤(たりしひこ)という、九州王朝の王の時代なのだそうです。
(出典: http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki6/nikki266.html)
多利思北孤(たりしひこ)は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」で記述される倭国王である。
(中略)妻は?彌。
(Wiki より) 妻の名前「?彌」が古字なので出ませんが、
この人は用明天皇の皇后で、聖徳太子の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)のようです。 >>805
ただ、この石姫皇后が縁起にみえる初見が貞享5年(1688)福島藩主堀田正仲の「羽黒山華表建立記」で、
当社を移転したとされる「仙台青葉山羽黒権現」の縁起書にはこの石姫渟中太命に関する伝承はなく
祭神「稲倉魂神」とあることが紹介される。
言及はしていないが、ニュアンス的に、この言い伝えは福島藩主堀田正仲時代からであると考えているように思わせる。
更に、「信夫山は山伏村」の項から「六供と宮人」の項にかけて、著名な神仏混淆の社寺との関連を考察する中で、
「当山は、江戸中期の領主堀田領の頃に、石姫伝説に附会して、
都から供奏した六家と説明されるようになり、いっそう山伏村の口伝が消えた」として山伏村の口伝の伝承にマイナスだったとの表現をしている。
(出典: https://kazenoshin.exblog.jp/i9/15/)
こういう説もあります。 多利思北孤(たりしひこ)は逆さ読みすれば「しりたひこ」。
猿田彦のメタファーでしょう。
神武天皇、猿田彦、応神と王仁、聖徳太子。
大体、この辺りの時代と人物が習合されている、と言えば聞こえはいいが、
歴史が千年くらいサバを読まれ、はしょられて誤魔化されている。
その度合いが甚だしい。 まぁ、時空間の接合性という宇宙世界の真理からすれば、十分に説明可能でしょう。
しかし、このデタラメさは作為的なものであって、真理とは関係ないです。 て言うか、宇宙世界あるいはダーリン家の真理を悪用して、デタラメやるのは昔から同じ人たち。 でも、菅○さんや○野さんや○坂さんといった石見出身の人たちが、
福島の信夫山で各種恩典を与えられていたのは事実だと思うわよ。 蜂子皇子と八田王子という 2 人の人物の符合に関与しているという事実が、ス○ノさんと王仁(応神)との関係を物語っている。
現天皇家と同じ血統であるという、今の日本でこれ以上のほめ言葉はないでしょう。
いい加減、成仏すれば? >>710-712
この時期、いしごおりは、北は忌部、南は南伊勢、西は物部(ス○ノ)に囲まれて、まさに四面楚歌だったのよ。 だからね、
京都から正式な官職と租税免除の恩典を与えられていた、
これは貴家が現天皇家側であることを意味するという、
ただそれだけのことがわからないかな。 >>817 に答えるまで、オカ板には来ないほうがいいと思うわよ。 預言スレの菅○さんは、震災に関する陰謀論なんて所詮この程度の糖質が言っていることとするための、
当局側の工作員であることはほぼ間違いないでしょう。 王母仙園近 龍宮宝殿深 追涼天駅幸 縦賞鳳輿臨 竹疏「長竿」節 「松傾」小蓋陰 醉臣迷聖造 唯有歳寒心
(菅野真道『前賢故実』) 菅野真道は桓武天皇の側近。
同僚の藤原緒嗣と、蝦夷征伐と平安京の造都について「徳政相論」と呼ばれる論争を行い、
緒嗣がこれらについて反対したのに対し、真道は続行を主張した。
桓武天皇は緒嗣の意見を採用して、蝦夷征伐と造都は中止された。
この話を額面どおりに受けとる必要はないかもしれないけど、
蝦夷征伐の強行を主張した菅野真道が「あずまえびす」だった可能性はないと思う。 >>823
額面どおりに受けとる必要はないというのは、
この話は単に、物部菅野から藤原中臣へ政治の実権が移行した時期とその経緯を、
藤原が平和論を主張したというきれいごとにして後に伝えているに過ぎないようにも考えられるから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています