宇宙人の秘密基地 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
上鴨神社、下鴨神社、北野天満宮 北野天満宮の摂社 白太夫社(しらだゆうしゃ)度会春彦翁(わたらいはるひこ) 古墳時代中期に朝鮮半島から渡来した秦氏(D2)は出雲には上陸せず、響灘から島根県西部(石見)あたりに上陸した (出典: https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12058094122.html ) ○トシさんが思っている以上に、 ○野家は○セ神宮の神官家と関係あります。 中臣つながりで。 そんなことより彼らが宇宙人の何を知ってるのか、何ができるのかに興味ありますね ゼウス家や宇宙人の秘密基地でもそこまではわからないかもしれませんが このスレは延々とこの流れでいくのでしょうか? なぜこっちはレスつけて質問してるほうはスルーするんですか? す▢のさんは、本当に自分の姓をネットで検索してみたことないの? 例えば、Wiki とかで自分の姓を検索してみたこと本当にないの? す▢のさんに応える形でレスしてると、 やばい内容になってくるので、 人によっては、す▢のさんとジョセフィーヌがコンビ打ちの仲間だと思うと思うの。 例えば、菅野高年、天皇で検索してみて、と言うと、 す▢のさんとの関係を一層疑われる結果になると思うの。 例えば、Wiki とかで自分の姓に「氏」をつけてを検索してみたこと本当にないの? ウィキペディアへようこそ このページの検索窓に、姓と「氏」の字を入れて、検索ボタンを押すだけでいい。 それをしたことが本当にないの? >大和国宇陀郡菅野村(現奈良県宇陀郡御杖村大字菅野)を指すとされる。 「御杖村大字菅野」 これ相当やばいと思う。 該当の地域は奈良県の東端で、すぐ西隣りは三重県一志郡美杉村。 日○氏と出○氏の里と言ってもよい地。 大和國宇陀郡 御杖神社 http://www.genbu.net/data/yamato/mitue_title.htm >御祭神 >久那斗神 八衢比古神 八衢比女神 これは猿田彦神のことですよね。 >境内社 >稲荷神社(大田命) この大田命があの大田命だとすると、 なぜこんなところに、という感を否めませんが、 宇治(宇遅) = 宇志 = 牛 という可能性はないでしょうか。 さらに、天満宮と伊勢の神宮の関係もわかってくると思うのです。 >>711-712 奈良から伊勢へ来るには、この御杖村から一志郡の美杉村へ入るルートしかないのよ。 >>716 訂正 他にもルートはありました(集落の形成具合からして、こちらがメインだとは思いますが)。 >>698 太宰府天満宮には白太夫(度会春彦)だけではなく、 倭姫命を伊勢に案内する大若子も祀られている。 梅宮大社は「梅宮」とも呼ばれている。 古くより橘氏、藤原氏の氏神、 守護神として祀られてきた(中略)。 大若子神・小君子神は伊勢国度会郡より遷した神で、 いずれも橘氏の外家につらなる祖神になります。 大若子は倭姫命世記に出てくる、 倭姫命を伊勢で案内するガイド役の人。 梅宮大社というのは京都嵐山にある藤原氏系の神社。 ここにも度会氏の祖神である大若子、小若子が祀られている。 伊勢の神宮の神官家はなぜこうも、 梅と天満宮、つまり菅原道真に関与したがるのか。 それは、 ここのスレ主夫婦が Judges の人だから。 次回は、応神と王仁という 2 人のオージンと、す○の氏との関連について考察する予定です。 >>699 菅野天財若子命神社 石見國美濃郡の延喜式内社 菅 野天 射 若 子命ノ 神社 〔姓氏〕 菅野 朝臣 出 レ自 -, 百 濟國都 慕 王 十 世 孫 食 首 王, 王仁(わに、生没年不詳)は、辰孫王と共に百済から日本に渡来し、 千字文と論語を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物である。 − Wiki より− 王仁が来朝したのは応神天皇期。 奇しくも、同時期に 2 人の「オージン」が存在することになる。 応神天皇のまたの名は譽田別尊(ホムタワケノミコト)。 実はこの名前は別の神様と交換した名前らしい。 日本書紀には次のようにあります。 一云「初天皇爲太子、行于越国、拜祭角鹿笥飯大神。時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別 神、太子名譽田別尊。」然則、可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳。 (『日本書紀巻第十譽田天皇應神天皇』) 太子となった応神天皇が越国へ行き、角鹿の笥飯大神(ケヒノオオカミ)を奉祭したとき、互いに名前を 交換した。大神は來紗別神(イザサワケノカミ)という名になり、太子の名は譽田別尊(ホムタワケノミコト )となった。大神の元の名は譽田別神(ホムタワケノカミ)、太子の元の名は去來紗別尊(イザサワケノミ コト)ということである。ただし、詳細は不明。 一云「初天皇爲太子、行于越国、拜祭角鹿笥飯大神。 時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。」 然則、可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳。 (『日本書紀巻第十譽田天皇應神天皇』) 太子となった応神天皇が越国へ行き、 角鹿の笥飯大神(ケヒノオオカミ)を奉祭したとき互いに名前を交換した。 大神は來紗別神(イザサワケノカミ)という名になり、太子の名は譽田別尊(ホムタワケノミコト)となった。 大神の元の名は譽田別神(ホムタワケノカミ)、太子の元の名は去來紗別尊(イザサワケノミコト)ということである。 ただし、詳細は不明である。 古事記にも同様の記述があります。 古事記 故建?宿禰命率其太子爲將禊而經?淡海及若狹國之時於高志前之角鹿造假宮而坐 爾坐其地伊奢沙和氣大神之命見於夜夢云以吾名欲易御子之御名爾言?白之恐隨命易奉 亦其神詔明日之旦應幸於濱獻易名之幣 故其旦幸行于濱之時毀鼻入鹿魚既依一浦 於是御子令白于神云於我給御食之魚 故亦稱其御名號御食津大神 故於今謂氣比大神也 建内宿禰命が太子を連れて高志国の角鹿へ禊ぎに行ったとき、その地に坐す伊奢沙和気大神が夜の夢で「吾が名を御子の御名に交換したい」、「明朝、浜にて名を交換した幣を献じましょう」と申し出た。 翌朝、浜へ行き、鼻の傷ついたイルカを見た太子は、「我給御食之魚(神様が食用の魚をくだされた)」と喜び、その神の名を称え、御食津(ミケツ)大神と名付けた。これが氣比大神である。 日本書紀では、応神天皇の元の名は來紗別神(イザサワケ)であったのが、 笥飯大神(気比の大神、ケヒノオオカミ)と名前を交換したことにより譽田別神(ホムタワケノカミ)となる。 一方の古事記では、笥飯大神が最初から伊奢沙和気大神(イザサワケ)となっており、 これが御食津(ミケツ)大神と呼ばれるようになった気比大神=笥飯大神である。 太子の改名後の名は不明。 要約しますと、 日本書紀では、 笥飯大神(気比の大神、元の名は譽田別神)→ 改名後、來紗別神(イザサワケノカミ)となる。 応神天皇(元の名は來紗別神イザサワケノカミ)→改名後、譽田別神(ホムタワケノカミ)となる。 古事記では、 伊奢沙和気大神(イザサワケ)→ 御食津(ミケツ)大神 = 気比大神=笥飯大神 応神天皇(誉田別命)→ 改名後の名は不明 ところが、そもそも応神天皇は産まれたときから譽田別という名前であったことが、 日本書紀の >>727 に引用した部分の直前に書かれているのです。 既産之、宍生腕上、其形如鞆、是肖皇太后爲雄裝之負鞆(肖、此云阿叡)、故稱其名謂譽田天皇。上古時俗、號鞆謂褒武多焉。 応神天皇は産まれたとき既に腕の肉が盛り上がり、その形は鞆(とも)のようで、 神功皇后が男装したときに着けた鞆に似ていた(これを阿叡(あへ)という)ため、その名を譽田(ほむたの)天皇と謂う。上古においては、鞆のことを一般に褒武多(ほむた)と謂ったからである。 元の名は來紗別神(イザサワケノカミ)であったのに、 譽田別神(ホムタワケノカミ)に改名させられた人物がいる。 ただし、この人物は偽ものです。 本当の元の名は來紗別神(イザサワケノカミ)であったのに、 譽田別神(ホムタワケノカミ)という名を故意に被せられている人物がいる。 (被せられているというのは、産まれたときに付けられた名前です)。 これが本物の応神天皇です。 日本書紀のこの条では、 元の名が來紗別(イザサワケ)神だった神は越国角鹿の笥飯大神(ケヒノオオカミ)ということになっている。 「然無所見也、未詳。」は「不確実で詳細は不明」という意味。 これはこの条が越国角鹿(現福井県敦賀市)の伝承に過ぎないから確かなことはわからないというほどの含意ではないか。 これを踏まえて、この越国角鹿の笥飯大神(= イザサワケ)を、勢州阿射加の Itzhak (Isaac or Isaak, transliterated from as Itzhak or Yitzhak, or Yitzchok) と置き換えて考えてみる。 応神(本物)= イサク 応神(偽もの): イサクから譽田別に名前が変わった(ことになっている)人。 王仁=? 元の名はイサクであったが、本当の名前を奪われて譽田別にされてしまった。 「本当の名を奪われたのは私」。 「本当のイサクは私」。 この種の主張をする人を、わたしはオカ板で見すぎるほど見てきました。 元の名はイサクであったが、本当の名前を奪われて譽田別にされてしまった。 「本当の名を奪われたのは私」。 「本当のイサクは私」。 応神天皇の時代にも、このようなことを言う人がいたということです。 わかりますか? 神功皇后の子である本物の応神天皇は本当に元の名が來紗別(イザサワケ)、つまりイサクだったのです。 本物の応神(=イサク)は消去され、 イサク → ホンダワケになった人物が応神となります。 >元の名はイサクであったが、本当の名前を奪われて譽田別にされてしまった。 >「本当の名を奪われたのは私」。 >「本当のイサクは私」。 >応神天皇の時代にも、このようなことを言う人がいたということです。 これが応神天皇です。 あまりにもややこしいので、記紀でも論理が破綻してしまっているのです。 >>738 > 本物の応神(=イサク)は消去され、 > イサク → ホンダワケになった人物が応神となります。 ここで、2 人のオージンが存在する必要が生じます。 677 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2018/02/22(木) 18:04:31.58 ID:tyrqpYZV0 [20/22] 死刑になったというのは、 言い過ぎかもしれないけど、同じような状態 『天財若子』 このような名前の家 ×『天財若子』 ○『イサク家』 わたしは、予言、預言スレにいるス○ノさんが、現天皇家の子孫だといっているのです。 ス○ノ家の名誉を毀損するようなことは何一つ言っていません。 ス○ノ氏、辰孫王、王仁などについては、 誰が検索しても同じ検索結果が得られるはずです。 (検索結果という)客観的データに間違いがあるとお思いなら、引用元のサイトに報告してください。 客観的データから推論と仮説を形成するのは個人の自由であり、 判断は読む人に委ねられるべきです。 >>740 > ここで、2 人のオージンが存在する必要が生じます。 おそらく、このときから天皇家は裏と表の表裏一体の形となったのでしょう。 預言スレにいるス○ノさんの言っていることはたぶん本当で、裏の皇籍というのがある。 収入がなくても生活できる黒幕が存在するのだと思います。 あまりの込み入った工作に、記紀の編纂者もお手上げだったのよ。 >>743 > わたしは、予言、預言スレにいるス○ノさんが、現天皇家の子孫だといっているのです。 文がおかしかった。 わたしは、予言、預言スレにいるス○ノさんと、現天皇家の先祖が同じだといっているのです。 あと、これは王朝交代の話です。 それ以前の天皇家が現天皇家であったことを前提とする話ではありません。 極言するならば、現天皇家とはス○ノ家のことなのです。 今晩は、皆さまの敵、YHVH です。 >>711 では、 預言スレのス○ノさんと YHVH の先祖同士が、県境を挟んで隣り合う地域に住んでいたことが判明しました。 すぐご近所さんだったわけです。 奇遇ですね。 倭姫命を祭神とする神社 http://www.genbu.net/data/yamato/mitue_title.htm 御杖神社 ス○ノさんのご先祖が住んでいた地域にある神社です。 姫命は垂仁天皇(BC29 〜 AD70)の娘とされているから、 大体 1 世紀頃の人ということになっていますけど、実際にはもっと新しい時代の人でしょうね。 訂正 ○倭姫命は垂仁天皇(BC29 〜 AD70)の娘とされているから、 以下は >>751 のサイトからの引用です。 >紅石 大字神末小屋神社の紅石。倭姫命が賊に追われた時、紅・白粉を捨てられたので、石が紅に染った。 女性が化粧して紅や白粉を携帯するようになったのは、早くて 3 世紀以降と思われます。 >また、倭姫命が賊の目をくらますために髪を切り落され、男装されたので落髪と、「やれやれ楽になった」と云われて< 神功皇后はこの頃(3 〜 4 世紀)の人でしょう。 ごめんなさい、>>751 御杖神社の祭神は倭姫命ではありませんでした。 >あるいは牛頭天王社、牛霊天王社などとも称された神社。 牛頭天王という名称は一般的ですけど、 牛霊天王というのは、たぶんこの御杖神社にしかないはず。 「牛霊」は「牛王」の古字です。 菅野氏 氏祖 王牛 >>752 >倭姫命が賊に追われた時 >>753 >>また、倭姫命が賊の目をくらますために髪を切り落され、 この地域には、賊がよく出没したようです。 >>713 王仁の弟子の一人に、応神天皇の息子の菟道稚郎子(うじのわかいらつこ)という人がいる。 この菟道稚郎子の離宮があったことが「宇治」の地名の元となったそうです。 男性皇族が幼年で亡くなると「若郎子(わかいらつこ)」という名が付けられるらしいのですが、 菟道若郎子は成人するまで生きています。 調べた限りでは、「若郎子」または「若子」という名は、 この菟道若郎子と、大若子、小若子、あとはス○ノ天財さんしかいません。 素戔嗚尊と稲田姫命を主祭神とする八重垣神社(島根県松江市佐草町)。 古くはは佐久佐(さくさ)神社と呼ばれた。 神武天皇の妃、 伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)=富登多多良(ほとたたら)のシンボル、笹百合の別名は三枝(さいくさ)。 佐草(さくさ)と三枝(さいくさ)の関連から、 櫛稲田姫 = 伊須気余理と考えると、 素戔嗚尊 = 神武天皇になる。 須我神社 島根県雲南市大東町須賀 祭神 須佐之男命、稲田比売命、清之湯山主三名狭漏彦八島野命 清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと) この人が応神天皇。 プレアデスの七媛女(ななおとめ)の長女はゼウスパパと結婚してヘルメスを産みます。 ヘルメス ≒ オーディン ≒ 猿田彦 素戔嗚尊と稲田姫命の話の舞台は島根県松江市。 子どもは清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠。 狭漏彦は「さるひこ」。 神武天皇といすけよりは奈良県桜井市の狭井河。 子どもは神八井耳命(=伊勢津彦)。 伊勢津彦(またの名を出雲建子、またの名を櫛玉命)は、 妃が弥豆佐佐良比賣命(みずささら)で子どもは大年神(子どもに関しては倭姫命世記による)。 舞台は伊勢。 いつも言ってますように、 人格神というのは、複数の氏族から成る時空間を超えた複合体として考えていますので、 厳密な意味での推論と仮説を形成するのは困難というより不可能です。 を建てるのは困難というより不可能です。 が、 清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと) この人が応神天皇(消されたほう)。 ただし、清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)という人が消されたのではなく、 消された人に、「清之」という名字を付けたのです。 この人はまた、大国主です。 半島から土地を引っ張ってきた、国引きの人。 おそらく、神功皇后の時代の人でしょう。 この人はまた、猿田彦でもあると言えます(>>760 )。 清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)という人が消されたのではありません。 消された人に「清之(ス○ノ)」という名字を、記紀の中で付けているのです。 清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと) この人が、消されたほうの応神天皇です。 「ス○ノ」という名字ではありませんでしたが、記紀ではそうになっています。 故れ其の大年~の兄、八島士奴美~。亦名は清之?名坂輕彦八島手~。[亦清之湯山主三名狹漏彦 八島篠~と云す。亦清之湯山主三名狹漏彦八島野~と云す。 (平田篤胤『古史成文』) >其の大年神 >其の大年神の兄 神八井耳は兄でありながら、弟に天皇の座を譲ります。 消えたわけです。 古事記では、産まれたとき「ホムタワケ」と名付けられたはずの応神天皇の改名後の名前が書かれていません(>>729 )。 清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)になったわけです(ただし消された後)。 清之という(音の)名字は、消されたほうの皇統の裏の名字として現存している。 ただし、これはフェイクです。 本当に消された応神(オーディン)はそんな名字ではありません。 この人の存在自体が、スサノオまたは猿田彦に関する渡来人説の根拠となるものです。 しかし、この人はフェイク、ダミーです。本当のスサノオまたは猿田彦は、そのような名字ではありません。 須我神社 本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命[1]であったものが、 記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる。 (WWiki より) 訂正 WWiki → Wiki 消した相手に自分の名前を付けるというパターンがあるのよ。 例えば、○ろみという相手を消して○○タッチという名前を付ける。 その○○タッチと対話する役を自演したら、自分は誰に見えると思う? ○ろみはまだ消えてないから成功してないけど、これやってる人いますよね。 日本の歴史学者は、5ch のオカルト板を短くても 3 年は ROM ってから、ものを言うべき。 そうでない場合、その人の研究成果に見るべきものはないと断言できる。 >>752 女性が白粉や紅で化粧し、さらに携帯タイプのそれら(白粉と紅)が作られるようになったのは、もっとずっと時代が下りますね。 奈良飛鳥時代の持統天皇に、鉛白粉が献上されて天皇が大変喜んだという記載が古事記にあるそうです。 もしかしたら、倭姫命もずっと新しい時代の人で、 持統天皇と習合しているくらいに考えてよいのかもしれない。 神武天皇は紀元前 7 世紀に即位したことになっているのだから、 奈良飛鳥時代までの千年くらい歴史がサバ読まれてるのだと思う。 >>774 これの上位バージョンとして、 消した相手キャラとの対話を自演する○ろみを自演するというパターンもあるのよ。 わけわからないけど。 >>781-782 倭姫命と持統天皇を習合させることも可能だとすれば、 石見(現在の島根県益田市)の国造として赴任し、同地で水死刑に処せられた柿本人麻呂と持統天皇との関係も見えてくるものがある。 ニギハヤヒの子孫とか出雲族とか日本最古の氏族とか言われていても、 後裔が石見の国造だったり、曾禰氏だったりするのですよ。 曾禰は御杖村(>>716 )ス○ノに隣接する地域。 兵主神社 (ひょうすじんじゃ) 兵庫県西脇市黒田庄町岡 祭神: 大己貴命、八千戈命、葦原醜男、大物主命、◎神清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命 総社 播磨国総社 射楯兵主神社(はりまのくにそうしゃ いたてひょうずじんじゃ) 祭神 射楯大神 射楯大神はスサノオの子とあるので、神清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命と同じ神でしょう。 播磨風土記には応神天皇に関する伝承が不思議なほど多い。 兵庫(播磨)を治めいた黒田官兵衛は、大分→福岡と転封になった。 福岡といえば金印。 黒田官兵衛には何かあります。 上げ 福島の信夫山にも山王権現日吉神社があるのね。 比叡山延暦寺から山王権現が信夫山に勧請されたとき、ご先祖もついて来たんじゃないですか。 >現在も加藤家・小野家・菅野家ほか、六供(ろっく)直系の子孫が、誇り高くお住まいになっています。 ス○ノ家は何しろ現天皇家なんですから、元宮廷人として誇り高くお住まいになっているのは当たり前でしょう。 誇り高くお住まいになっている方々の名字って、島根県益田市(石見)に多い名字なのよね。 例えば○坂さん。 福島県福島市と島根県益田市、あと熊本県熊本市に集中してる。 信夫山に山王権現を勧請した坂上田村麻呂も渡来人で、墓所は島根県邑智郡にある。 >>790 ○坂さんも華族ですものね。 久邇宮家や梨本宮家とつながってる。 久邇宮さんは伊勢皇學館大学の創立者でもあり、比叡山延暦寺の座主でもあった。 石姫と蜂子皇子の伝説って、神功皇后と応神天皇(本物)が、 ○野さん、○野さん、○坂さんたちに伴われて逃げてきたといわんばかりの話だものね このメンバーが石見の国出身というのもすごいと思います。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる