>>26-29
体育が「スポーツ選手」や「軍人」といったプロの育成に役に立たない、というのは体育が不要である決定的理由ではないと思う。

国語や算数の授業も、作家や文学者、数学者育成に役に立っているか、といったら必ずしもそうでないと思う。

体育の授業が不要であると断言できる決定的理由は、
基本的な体の動かし方、技術を教えることが全くないからである。

「基礎教育」に相当することを全く行っていないのである。

国語や算数を受ける生徒全てが、作家や文学者、数学者といったプロやスペシャリストを目指すわけではない。目指さないの人の方が多いと思う。
作家や文学者、数学者育成に役に立つ教育を行っているとも思わない。
でも、国語や算数の基礎教育は十分に役に立っているのである。

国語教育があるおかげで、文盲はほぼゼロだし、
(国語教育が行われていない、アフリカや中国の一部では文盲が存在する)

算数教育があるおかげで、九九が出来ない、という人はほぼゼロだ。

しかし、体育の1年から6年の過程でサッカーや鉄棒に九九の授業を超える時間を割いているにも関わらず
逆上がりやリフティングが出来ない人が多数存在する。

それもそのはず。
見本を見せて、あとはやって見ろというだけ。正しい筋肉の動かし方・技術等は全く教えない。

算数で例えれば、ドリルとその回答を生徒に配ってあとは自分で解いて、自分で答え合わせしてね、というのと同じ。
先生は生徒が教室から逃げ出さないのを監視する以外は他のことをしている。

どういう過程で解くことが出来るかは、質問にきても絶対に教えない。

そんなことを算数でやったら確実にPTA・教育委員会で槍玉に挙げられる。
でも、体育ではごく普通にまかり通る。

体育の授業では、うまく出来るようになるための指針・コツを全く示さず生徒のセンスのみに任せる。
そして、うまくできなかったら晒し者、笑いものにされる。

国語や算数の成績をトップからビリまで公開するのはほとんどが中高一貫校を中心とした一流進学校だ。
でも、体育はそれを全ての学校で小学校から行う。

こういう"教育"だけは「一流」なのである。

結局のところ、体育の授業の存在意義は

@(基本的な体の動かし方、技術を教わらずとも出来る)体育の出来る生徒が、体育が出来ない生徒に対し能力を誇示すること。
A体育が出来ない生徒を、みんなの前で確実に晒し上げること。
の2点なのである。

これが、「教育」といえるのか、体育の授業が「教育課程」として必要なのか、
結論は言うまでもない。