>>280
>能力、興味の有り無しに関わらず受けれるから義務教育なんだろ?
その通り。

そして、「能力、興味の有り無し」を問わず教育を行う理由は、
「能力、興味の有り無し」に関わらず「全ての国民に最低限の教育を行き渡すこと」にある。

>やる気の有る無しなんか完全に個々人のメンタルだし、能力別個別教育できる程満ち足りた教育行き渡る訳が無いし。

しかし、国語や数学の9年間の教育課程は
個人の能力の差違、「メンタル」の有無に関わらず、「全ての国民に最低限の教育を行き渡すこと」の
「義務教育」の役割を果たしている。

漢字の全部書き取りや、算数のドリルなどは、
>>280の要求する「メンタル」をもってやっている生徒はほとんどいないだろう。

9年間の教育課程のなかで、能力や「メンタル」に欠ける生徒にも、最低限の教育を浸透させているのだ。


国語教育があるおかげで、文盲はほぼゼロだし、
(国語教育が行われていない、アフリカや中国の一部では知的障害の無いひとでも、文盲が存在するし
 日本でも、江戸時代には文盲が存在した。)

国語の9年間の義務教育課程は、「国語音痴」の根絶を果たしたのだ。

算数教育があるおかげで、九九が出来ない、という人はほぼゼロだ。
暗算が苦手なひとでも、電卓があれば計算ができるのだ。


体育教育が9年間かけた教育の成果は?

国語や数学が義務教育である理由は、
個人の能力の差違、「メンタル」の有無に関わらず、「全ての国民に最低限の教育を行き渡すこと」だが、

体育が義務教育である理由は、
・いまが「義務教育」なので制度を変えるのが面倒。
・体育の教育関係者が今の職を失いたくない。

程度ではないのか。

ほとんどの人は、立ったり、階段を上り下りしたりすることが
箸をつかったり、お風呂に入ったりすることはできるが
「体育の授業の成果ではない」ことは言うまでもない。